米機密文書詳報(2002年5月産経新聞連載)

対日工作における中国と北朝鮮の協力関係

◎1955年3月18日 在日米軍第441防諜部隊所属 ストーン大尉報告書
 貿易代表部副代表として日本に滞在するニ・ウェイティンは最近まで北朝鮮・平壌の中国大使館勤務だった。日本では政治問題を担当するとみられるが、ニについて日本外務省は朝鮮名がリー・ウングキルという北朝鮮軍少将だとの情報を寄せた。主な任務は覚醒(かくせい)剤や麻薬などの密輸とみられる。

◎1956年9月5日 在日米軍第3作戦グループ所属 アーサー・ウォーターハウス特務員報告書
 米国の情報源であるC38は1956年8月12日、中国銀行香港支店に口座を開こうとした。C38は口座開設で多額の融資を受けることを意図していたが、応対した融資係のファンはC38が1953年から54年にかけて約10カ月間、中国で中国共産党についての“オリエンテーション・コース”に参加したと打ち明けた途端に親しく振る舞うようになった。ファンはC38を親中共と理解したようだ。ファンが口座開設に香港在住の紹介者がいると説明したので、C38は大阪市にある国際新聞社のL(報告書は中国名)前会長の名前を挙げた。これに対しファンは妙な顔つきになり否定的な態度を示した。
 C38の問いにファンは「これは極秘だが」と前置きしたうえで、「Lの口座は個人資産ではなく中国共産党と北朝鮮政府による公的隠し口座のようなものだ。日本と韓国に対する情報活動やプロパガンダ資金として使われている」と証言した。Lは当時、香港に自宅を構えているが、実際には住所は明確でない。
 C38は帰国後、東京にある東京華僑総会事務所を訪れ、同総会幹部と会話中にリ・ティエンチェンを紹介された。リは「日本の官憲が在日中国人の香港行きを監視しているので、香港への密航ルートをアレンジできる」と説明した。リによると、密航は千五百香港ドルの費用でビザ取得の心配もないという。同席した華僑総会幹部はC38に対し「リは(香港にいる)Lの工作資金の運び屋のような役割をしている」と説明した。

◎1968年1月6日、在日米軍第704情報部隊所属 ウィリアム・ヘーブリン特務員報告書
 ス・アン(47)はストラート・トーワ(ダッジ・ロイヤル・インターオーシャン・ライン所有)の船員だが、同船舶は1967年8、9、10、11月に麻薬密輸容疑で捜索を受けた。捜索が行われたのはシンガポール、香港、大阪などで、上海寄港中、スは船長以上の権威をみせ、横浜では中国曲芸団の舞台裏を訪問するのを目撃されている。シンガポール当局などはスが麻薬、金、時計などの密輸にかかわっているとみている。また、ファン・ジャンスン(37)はロイヤル・ルイ号の船員として麻薬密輸に従事しているとみられている。

国会議員や労働組合幹部への工作

◎1955年3月11日 在日米軍第441情報部隊所属 セイジ・オカザキ特務員報告書
 シン・エンピン(通称スー・シャン、27歳)は中国の元女優で対日スパイとして活動している。現在は東京都渋谷区に居を構え、香港にある南宋公司社長で元中共軍将軍のリ・クンリァンの指示で活動しているとみられるが、スーの活動対象は日本の国会議員に接触し、関係を保つこととされ、これまでの情報では月200万円を費やしていると推測される。
 スーはとりわけ民主党議員で前内閣官房長官のN(報告書では実名)議員に接近、強い関係を築いたもようで、すでに多額の政治資金をスーが提供している。スーは中共統一戦本部支配下にある北京大学元農学部校舎を本部にする国際地下工作員訓練所で初期訓練を受け、51年10月に香港に派遣された。さらに南宋公司のリの指示を受けて東京に潜入した。スーの実兄はそれ以前に東京に潜入、活動していたが、1954年10月、兄が台湾の国民党政府寄りになったとスーが報告したため実兄は中国に呼び戻され処刑された。

◎在日米軍参謀部所属第五〇〇情報グループ特殊任務部隊報告書
 富士重工労働組合宇都宮支部のO(報告書では実名)は中国機械工業労働組合の招待で1963年6〜7月に訪中した。そのさいオパールや月長石など高価な宝石類、絵画類など計50万円相当と現金を持ち帰った。また、栃木県選出の社会党参議院議員、T(報告書では実名)に対してはダイヤモンドの指輪を中国要人からの贈り物として届けた。
 Oがこれら高額の宝石類を購入できたのは中国スパイの疑いのある在日中国人、スン・クンタイに、中国の知人から現金を預かってきてほしいと依頼され、その現金を借用したからだと説明している。また、TはOに周恩来首相あての紹介状を渡しており、指輪は周恩来首相かその周辺の要人からの贈呈品の可能性がある。

 Oは訪中後、日中友好協会宇都宮支部メンバーとなり、「中国は労働者の天国」など中国礼賛の言動を強めている。

中国スパイ網の実像

◎1953年3月17日 在日米軍第441防諜部隊所属 ロバート・ガンビーノ特務員報告書
 日本国内にH2機関と呼ばれる中国の対日工作網が設置された。H2機関はソ連情報機関の指導で設立された革命闘争前線委員会の支配下にあり、H2機関本部は香港に存在する。香港本部トップは李平凡だ。H2機関は日本国内に6つの支部を持ち、活動目的は米軍などに関する情報収集とともに「中日合作指導部」を通じた日本共産党への指導と監視にある。同指導部は1950年ごろに設置されたとみられる。

◎在日米軍第441防諜部隊佐世保支部所属 ジョン・マゾーラ特務員報告書
 中国対日工作グループについて次のような情報がI58によってもたらされた。このグループは中国からの帰還者で作られたもので「101機関」、あるいは「中共帰国者情報機関」と呼ばれている。最上部組織は「中共政治華東局」で、その下に「対日人民工作軍政人員訓練団」が設けられた。訓練所は旅順・大連地区▽広東地区▽天津地区の三カ所に設置され、旅順・大連地区にはさらに東京担当、北九州担当、武器密輸担当の3グループがある。東京地区グループのリーダーは陳で、北九州地区は周だが、二人とも北京大出身の中国人でありながら中国からの帰還者第2陣に紛れて1953年に日本に潜入した。任務は日本におけるスパイ活動のほか日本共産党員に資金と武器を提供し革命を奨励することにある。
 1954年二月後半、周は長崎県平戸市周辺に2,000丁の拳銃を密輸しようとして失敗している。近く中国紅十字総会の代表と中国新民主主義青年団の廖承志が友好を理由に当地を訪問するが、目的は日共党員との連絡とみられる。

◎1967年8月26日 在日米軍第704情報部隊所属 ウィリアム・ルビー特務員報告書
 日中友好協会にいる米側情報源によると、LT貿易(日中間の準政府協定に基づく貿易)に従事するS(報告書では中国名)は1967年四月、中国に呼び戻され、元日共メンバーの組織化失敗を強く叱責(しっせき)された。このため失脚が予想されたが、対日工作に戦術的変更があり、Sが再び反日共グループ組織化の責任者として派遣されることになった。
 新戦術は次の通り。(1)「毛沢東思想の研究」出版をこれまでの「毛沢東思想研究会」ではなく新たにつくる「合同産業会社」に委ねる。さらに販売は「日本出版販売会社」で行う(2)「毛沢東思想研究会」の元日共中央委メンバー、N(報告書では実名)を運営資金不正流用の疑いで左遷する。代わりに元日共メンバーで親中派のHらを任命する(3)新日本共産党の旗揚げを準備し、初代党首には西園寺公一を迎える(4)すべての親中派メンバーは日共の戦術を見習いそれぞれの組織にとどまって日共分子追放を目指す−など。

◎1968年4月 在日米軍第704情報部隊所属 デビッド・トヤマ特務員報告書
 1968年1月〜3月にかけて入手された情報によると、中華料理店「A(報告書は実名)飯店」を中心にした中国スパイ網は、日本の警視庁が青島グループと呼んで監視するグループと重なり、さらに「チェン・グループ」の活動にも深くかかわっていることがわかった。
 A飯店は山東省出身のS(報告書は中国名)が経営しており、Sは第2次大戦中、青島で三井物産に雇われていた経緯がある。しかし、その後、Sは1948年〜1949年にかけて日本に密航した中国スパイとわかった。Sは違法に外国人登録を行った。

日米70年安保と佐藤訪米

◎1968年4月 在日米軍第704情報部隊所属 デビッド・トヤマ特務員報告書
 (米側情報源の)RU12宅に1967年10月15日、チェン・ナンハンが現れた。チェンは東京周辺で活動する中国スパイ網「チェン・グループ」のリーダーと見なされる男だが、佐藤栄作首相の訪米の狙いを探るようRU12に依頼した。RU12はその後、チェンらが作成した手書きの中国本国送付報告書コピーを入手した。概要は次の通り。
 「日米安保改定は東アジア反共同盟の結成を目的としている。同盟とは単に軍事的な意味でなく経済、政治、文化に至るものだ。同盟結成の時期を考慮するうえで1970年が重要になるが、この年は中国が核兵器を作戦配備するのと重なる。最新の三木武夫外相訪米に関する情報入手で、今回の訪米では沖縄返還を強く打ち出さないことがわかったが、日本は明確な返還タイムテーブルを持っていないようにみえる。だが、同盟準備のために日本が軍事力増強を図るとみられ、中期的には日本こそがアジアにおける共産圏諸国への対抗バランスの役割を果たす。そうした役割を果たせるようになるまで米国は沖縄を手放さない」
 また、羽田国際空港における日米安保反対デモについて、「日本共産党と対立する三派全学連は日本での革命を指導する可能性があるのにそのことがまだ十分に分析されていない。この学生組織は革命を起こす唯一の組織という意味で無視してはならない」と評価した。
 一週間後の二十三日、チェンはさらに次のように分析した。
 「米国がこの時期に弾道弾迎撃ミサイル(ABM)設置を発表したことはとりあえずは中国と戦わないことを意味する。それはベトナム戦の終局も意味する。つまり米国がアジアから撤退することだ。しかし、(撤退前に)米国は日本の軍事力を強めようとするだろうし、他の反共諸国の力も強めようとするだろう。従って佐藤訪米で日本は沖縄返還の見返りに軍事力を強める。大統領選を意識してジョンソン大統領がベトナム和平に動きだしており、沖縄返還問題に対する日本の感情を考えれば、この分析はさらに補強される」
 この分析の情報源としてチェンは日本外務省内部の人物を示唆した。
 佐藤首相訪米当日の11月12日、チェンは情報を中国に送付したとRU12に語った。その情報の趣旨は次の通り。
1.ベトナム戦に日本は自衛隊を送らない。代わりに南ベトナム政府への経済援助を行う。援助は東南アジア地域援助の一環として行う。
2.日米安保改定に日本は応じるが、同時に軍備増強にも応じる。核兵器持ち込みも受けいれる。
3.東アジア反共同盟が結成されれば、日本は参加する。
4.日本は沖縄および小笠原諸島の返還を要求し、米側は行政権委譲を明確にするが、日程は未定。経済問題では日本が貿易の最恵国待遇などを米国に求める。
 チェンはこのほかベトナム戦での核使用の可能性を探るようRU12に指示する一方で中国の核開発について「急速に進んでおり、1968年終わりまでにアジア全域を覆う地域を核攻撃できる能力を備える。その中に日本、台湾、フィリピン、ロシア、ベトナムが含まれる。六九年後半にはたぶん米本土も攻撃可能になるだろう。中国の核開発は文化大革命に全く影響を受けていない」と述べた。

プエブロ号事件と朝鮮戦争危機

◎1968年2月6日 在日米軍第704情報部隊所属 ウィリアム・ヘーブリン特務員報告書より
 プエブロ号事件発生でチェンは1968年1月30日、RU12を呼び出し(1)北朝鮮と米国の間で戦争が起きた場合、日本政府はどう対応するか(2)ベトナム戦がさらにエスカレートした場合はどうか(3)米国・北朝鮮の戦争で、日本は中国の北朝鮮支援を予測するか。中国が北朝鮮を支援した場合、日本政府と自衛隊はどう対応するか(4)こうした緊急時に関連した日米安保条約の特別条項は存在するのか(5)日ソにおいても緊急時の密約、合意事項は存在するか−の五点を早急に調査するよう命じた。
 チェンはRU12に対し三木外相とのインタビューで情報を得るよう勧め、自民党有力者の橋本登美三郎か田中角栄を通じて申し込むのが確実だということになった。しかし、RU12は結局、三木外相に直接連絡を取れず、チェンとRU12は翌午前10時に再会することにし、チェンは当座の活動資金3万円を渡した。
 RU12は橋本と連絡が取れ、橋本が三木外相との会合を約束したと話すと、チェンは31日夕までに中国本国に報告書を送らなくてはならないと述べ、三木外相とは別に情報通とされる政治問題専門家に意見を求めるよう指示する。三木外相は結局、国会開会中を理由に断ってきたためチェンは次のような報告書を作成した。
1.戦争勃発(ぼっぱつ)に際して日本の参戦は予想されない。
2.ベトナム戦エスカレートにも日本は何ら積極的役割を演じない。
3.戦争状態に入れば中国が北朝鮮を支援すると日本は信じているが、それが日本の安全を脅かすとは考えない。従って日本は積極的な対応策を採らない。
4.日米間には密約はない。
5.日ソ間においても密約や特務事項はない。

日中国交回復前後のスパイ活動

◎1973年7月9日 在日米軍第500情報部隊所属 ベンジャミン・ハミルトン大佐報告書より
 日中国交回復にともなう初代駐日大使の日本赴任によって中国の日本における情報活動は活発になると考えられる。その対象はソ連の対日影響を弱め、中国経済再建に必要なノウハウを日本から得ることになる。とりわけ(1)日ソ関係に対抗する日中関係の確立(2)在日米軍と自衛隊情報の収集(3)チュメニ石油埋蔵地(ウラル山脈東部)へのソ連の意図を探る(4)ICBM(大陸間弾道弾)関連技術情報の収集−に絞られる。加えて日本政財界への影響力保持とソ連の影響力阻止が重要な課題となる。

◎1972年12月6日 在日米軍第500情報部隊所属 トシオ・アオヤギ大佐報告書より
 東京華僑総会のC(報告書では実名)が1972年9月15日〜11月9日まで訪中団を率いて滞在中、周恩来首相から次のような特別任務を指示された。(1)台湾の在日学生に対し中国の費用による中国訪問を勧め、代わりに学生は台湾に戻って中国の指示を受ける(2)日本国籍を得た中国人に極秘に中国を訪問させ、日本帰国後は中国政府のための活動に従事させる。