北鮮の指導思想 「主体思想」

 朝鮮民主主義人民共和国は金日成主席のチュチェ思想を活動の指導指針としている。
 チュチェ(主体)思想とは、一言に言って、革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設をおし進める力もまた人民大衆にあるという思想である。
言いかえれば、自己の運命の主人は自分自身であり、自己の運命を切り開く力も自分自身にあるという思想である。
 朝鮮民主主義人民共和国では、「革命と建設でチュチェ思想を不動の指導指針とし、あらゆる分野で主体性を確立している。
主体性を確立するということは、自国の革命と建設に主人らしい態度でのぞみ、革命と建設のあらゆる問題を自主的立場と創造的立場で主に自分の力で自国の実情に即して解決することを意味する。」としている。
 この思想の具体的発露が、チュチェ思想に基づく独自の社会主義建設であり、「政治の自主」「経済の自立」「国防の自衛」を骨子とする自主独立路線の推進である。
 この思想では、その能力を最大限に発揮するためには、「領袖を中心とすることにより、人民大衆の不抜の政治的・思想的統一と団結を実現し、国家の政治的基盤をかため、人民大衆の無限の力と知恵を最大限に引き出すことができる」、としており首領論と結びつけて考えられている。


チュチェ思想と人間の運命

 チュチェ思想は今日、自主性を志向する世界数億人民の大きな共感を呼び起こしている。その理由の一つは、それが人間にとって切実な問題である運命開拓の正しい道を示しているからであろう。
 人間が生き、発展するには、社会的境遇や生活を改善していかなければならず、そのためには運命開拓のたたかいをくりひろげなければならない。運命の開拓は、個人にとっても民族にとっても根本的な問題である。
 したがって人間に仕える科学は当然、人間の運命開拓につくさなければならない。個々の科学は、それらの研究分野で運命開拓の具体的な問題を研究し、方途を示すことによって、人間の運命開拓につくしている。例えば、医学は人間有機体の構造、特性を研究してその健康をはかり、化学は物質の組成と構造、特性を研究し、新しい物質を合成して生活の向上につくす。
 哲学は人間の運命にかんする根本的・包括的問題を解明し、人間の運命開拓に貢献することをその使命としている。言いかえれば、哲学の根本的使命は、人間の運命とはなんであり、その主人は誰であり、それを切り開く力はどこにあるかを明らかにし、運命を切り開く道を示して、人間の運命開拓に貢献するところにある。
チュチェ思想は人間を中心にすえて、人間の運命開拓を科学的に解明した。


1、人間は自己の運命の主人・開拓者

 運命の問題は生死や幸不幸、栄枯盛衰などさまざまな重要な問題を内容に含んでおり、古くから、多くの思想家や哲学者の関心のまととなってきた。
 従来人間の運命は変わりうるか、変わるとしたら、その要因はなんであるかということが争点となっていた。
 人間の運命はあらかじめ決定されていて、人間の力ではどうすることもできないとみる宿命論は、人間の死や幸不幸、栄枯盛衰は人間の力ではどうにもならない宿命であり、人間はそれに従わなければならないとした。
 他方、人間の運命は変わりうるとみる見解がこれと対立しているが、内容は一様ではない。
 人間の運命は全知全能の神が掌握しており、運命を変えるには神の力に頼らなければならいとする主張や、禁欲苦行によって死後極楽世界で永遠の幸せが享受できるとする主張などは、不幸と苦痛を知らず幸せに生きることを望む人間の志向、念願を反映している。しかしそれらは、人間を科学的に解釈した見解とはいえない。とりわけ、人間の運命の主人は誰であり、それを切り開く力がどこにあるかという問題に正しい解答を与えていない。
 チュチェ思想は、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという哲学的原理を明らかにし、人間の主人は誰であり、それを切り開く力はどこにあるかという問題に科学的な解答を与えた。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「人間の運命は世界との関係において決定されるのであるから、人間が世界において主人の地位を占め、世界の発展において決定的役割を果すということは、とりもなおさず人間が自己の運命の主人として、自己の運命を開拓するうえで決定的役割を果すということを意味します。したがって、世界における人間の地位と役割を解明するチュチェの哲学的原理は、人間の運命開拓の道を解明する原理となります」(『チュチェ思想について』、外国文出版社、1989年度日本語版、156ページ)
 人間の運命の主人は誰であり、それを切り開く力はどこにあるかという問題に正しい解答を与えるには、人間と世界との関係が明らかにされなければならない。なぜなら、人間は世界を離れて生きていけず、ただ世界との関係のなかでのみ運命を切り開いていけるからである。
 人間と世界との関係に正しい解答を与えたのは、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するというチュチェ哲学の原理である。それは、人間と世界との関係を二つの側面から解明している。人間があらゆるものの主人であるというのは、人間が世界において主人の地位を占めるということであり、人間がすべてを決定するというのは、人間が世界を発展させるうえで決定的役割を果すということである。
 人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するというチュチェ哲学の原理は、世界における人間の地位と役割を明らかにしているばかりでなく、人間の運命開拓における人間の地位と役割をも解明している。
 人間は世界の主人の地位をしめるので、自己の運命にたいしても主人の地位をしめ、また世界の発展で決定的役割を果すので、運命の開拓でも決定的役割を果すのである。
 ところで、世界における人間の地位と役割、言いかえれば人間と世界との関係を明らかにするには、まず人間と世界の本質を解明しなければならない。二つの物質の相互関係を考察するには、まず各物質の特性が明らかにされていなければならない。したがって、人間と世界の関係を明らかにしたチュチェ哲学の原理は、物質世界の一般的特徴と人間の本質的特性をも解明しているのである。それゆえチュチェ哲学の原理には、物質世界の一般的特徴、人間の本質的特性、そして人間と世界の相互関係、つまり世界における人間の地位と役割を解明する原理が全般的に包括されているといえる。チュチェ哲学が明らかにした人間の運命の主人は誰であり、人間の運命を切り開く力はなんであるかを知るためには、一般的に世界とはなにか、人間とはどのような存在であるかを知り、そのうえで、人間と世界の相互関係を解明しなければならない。


(1)世界の一般的特徴はなにか

 世界とはなにかという問題について古くから論争がたたわされてきたが、つきつめて言えば、争点はつぎの二点であった。
 その一つは、世界はなにから成り立っているかというもので、そこには対立する二大見解、つまり世界は物質から成り立っているとする唯物論と、世界の始原は意識ないし精神であるとする観念論があった。
 いま一つの争点は、世界が発展するか否かというもので、前者を弁証法、後者を形而上学といった。
 唯物論と観念論、弁証法と形而上学の対立は、先進的階級と反動階級との階級闘争の反映であった。
 反動階級はその支配的地位を神聖化し、人民大衆の惨めな境遇を宿命的なものとすることに利害関係を見出していた。そうした利害関係を反映して、観念論は世界の万物は精神的なものであり、人間の運命も物質世界外にある精神的要因によって決定されると主張したし、形而上学は人間の運命を含めて万物は固定不変であると強調した。
 しかし先進的階級は、人間の運命を決定する要因は物質世界そのものにあるとし、人間の運命は切り開いていけるとみることに利害関係を見出していた。こうした利害関係を反映して、唯物論は人間をも含めて万物は物質であると強調し、弁証法は世界は変化発展すると主張したのである。
唯物論と観念論、弁証法と形而上学のたたかいは、唯物論と弁証法の勝利で終わった。
哲学的唯物論と弁証法の主張は、物質世界の一般的特徴、つまり世界万物の共通性はなにかという問題に正しい解明を与えている。
世界の一般的特徴はまず、世界が物質から成り立っているということである。

 意識、精神はもっとも発達した物質である人間の脳髄の属性である。人間の脳髄の作用を離れて意識や精神について語ることはできない。ところで、物質世界は地球上に人間が出現するはるか以前から存在していた。これは、天文学、物理学、生物学などの自然科学によって証明されている。学者たちの見解によれば、地球の形成後、長い化学的進化の過程を経て地球上に生物物質が発生し、その後生物物質進化の過程をたどるようになった。地球上に生命現象が発生したのはいまから約35億年前のことだったという。
 生命現象の発生後、人間が出現するまでには実に長い歳月を要した。人類の出現はおよそ300万年前だといわれるが、それはなにを意味するのだろうか。無生命物質は文字どおり物質であり、意識、精神はもっとも発達した物質的存在=人間の脳髄の属性であるということを考えあわせるとき、物質は意識、精神が現れるはるか以前から存在していたといえる。
 つぎに、精神現象はどうみるべきだろうか。
 精神現象があることは事実である。しかしそれはあくまでももっとも発達した物質である人間の脳髄の属性ないし機能であって、独立した存在ではない。精神、意識はつねに人間の脳髄に付随し、それが存在し健全に作用するとき精神現象や意識現象が現れるのであり、それがなければ精神現家、意識現象は現れない。人間が重態に陥り脳髄が正常に作用しなくなれば意識を失い、死人の脳髄には精神作用などない。
 結局、万物は物質から成り立っているという唯物論の原理は、存在の面で世界の一般的特徴を明らかにした真理であるといえる。
世界の一般的特徴はつぎに、世界がたえず変化発展しているということである。
 形而上学も世界が運動することは認めているが、その発展については否認している。物質世界はたえず運動変化するばかりでなく、発展する。単純な下等物質が結合すれば、多様な性質をもったより有力な新しい物質が生まれる。
 このような過程をくりかえして無生命物質から生命物質が生まれ、生命物質から人間が出現したのである。生命物質は無生命物質に比べて、はるかに多様かつ複雑な要素の結合した新しい物質であり、人間はすべての生命物質のなかで、もっとも多様な要素が結合した発達した物質的存在である。
 長期にわたる唯物論対観念論、弁証法対形而上学のたたかいをつうじて得た世界の一般的特徴にかんする見解は、世界は物質から成り立っており、たえず変化発展するということである。

(2)人間とはどのような存在か
 われわれ自身が人間であるため、人間とはどのような存在かという質問にたいする解答は、一見容易にとれるが、実は難題である。それは、人間がもっとも発達した物質であり、それだけ複雑な存在であるからである。
人間とはなにかという論争は古くから、さまざまな見解をもってたたかわれてきた。
 人間が「万物の霊長」であるという主張は、人間がすべての生命体のなかでもっとも優れた存在であることを指摘した素朴な見解であった。
 宗教的世界観においても人間の優位性が説かれている。しかしそれはあくまでも、人間が神の下におかれた存在であるという理解にとどまっていた。宗教的世界観は、神が魚や鳥、獣などあらゆる動物を創造し、それらを治めるために自分の姿に似せた人間を創造したと説いている。

 唯物論的世界観は人間にたいする新しい見解を示した。神の存在を否定する唯物論的世界観は人間をもっとも発達した存在とみ、人間よりも後れた存在である動物との比較によって人間の本質を解明しようとした。しかし従前の唯物論は基本的に形而上学的方法論に頼っていたために、ただ、人間は生物学的にもっとも発達した存在であるということを強調したにすぎなかった。
 反封建闘争時代の唯物論者は、人間を「理性をもった動物」とみた。かれらは人間の身分を拘束する封建制度に反対し、理性の重要性を主張した。
 人間にたいする見解はマルクス主義唯物弁証法哲学によって新しい高みに引きあげられた。
 マルクス主義哲学は、人間は「労働用具を作る動物」であり、人間の本質は社会関係の総体であるとした。これは、人間の本質を社会関係のなかでとらえたもので、人間の活動で物質的経済生活を重視した見解であった。それは、人間にたいする従来のすべての見解に比べて画期的な前進であった。
 人間が労働用具を作って使用するということ、社会関係を結んでいるということ、理性をもっているということはすべて事実である。このほかにも、人間は言語を使い、科学、芸術を創造し、政治生活を営むという点でも動物と区別される。
 しかしこのような人間と動物の差を比較して人間のいろいろな特性を指摘するだけにとどまっていては、まだ人間の本質的特性が解明されたといえない。問題は人間が動物と区別される点を羅列することにあるのでなく、そのような区別を生んだ人間の根本属性を解明することにある。
 金正日書記はつぎのように述べている。
 「チュチェ思想によって、人間は自主性、創造性、意識性をもった社会的存在であることが解明された結果、人間にたいする完璧な哲学的解明がなされるようになりました」(上掲書95ページ)
 人間は自主性、創造性、意識性をもった社会的存在である。そこにこそ、動物をはじめ他の物質的存在と根本的に区別される人間の本質的特性がある。
一般的にある事物の特性を知るには、それと類似した他の事物と比較すればよい。人間と動物の発達水準には著しい差があるが、動物は人間いついて発達した生命物質である。したがって人間の本質的特徴を正しく理解するには、それを動物との比較で考察するのが妥当であろう。
 人間と動物の共通性は、それらがともに生命をもつということである。生命とはなにかという問題は現在も研究中であり、今後さらに研究を進めなければならない問題である。しかしこれまでに到達した科学的認識にもとづいて確信をもっていえることは、生命有機体には生きようとする要求と、それを実現する生活能力があるということである。
 物質の属性はその運動に現れる。生命現家の運動のもっとも重要な特徴の一つは、それが一定の要求と目的に従っておこなわれているということである (生物学では生命有機体の連動を合目的的な運動であるという)。もちろん動物は意識をもっていないので、意識的に目的を提起することはできない。しかし動物の個体の保存と種の保存という二つの本能的要求があることは、周知の事実である。こうした生活要求を離れては、動物のいかなる活動も説明することができない。
 動物が一定の目的に即して運動できるということは、動物に生きようとする要求があるばかりでなく、その要求に即して活動する能力があるということを意味する。目的と要求だけがあっても能力がなければ、いかなる運動も不可能であろう。われわれは動物の生活をみせるフィルムを通して、動物が生存と繁殖のために自然環境を「巧みに」利用していることを知ることができる。動物はいろいろな方法で餌を得るばかりか、さまざまな形の巣も作る。動物の生命活動は一言でいって、自らの生活要求を自らの生活能力によって実現していく過程であるといえる。こうみると、動物を含む生命有機体の根本的特徴は、自らの生活要求と生活能力をそなえているということにある。
 人間も生命有機体である以上、生さようとする要求と生きる能力をもっている。しかし社会的存在である人間にある生活要求と生活能力は、動物にあるそれらとは根本的に区別される。
 動物の生活要求が環境に順応して生きようとする要求なら、人間の生活要求は世界の主人として生きようとする要求である。動物の生活能力が自然環境に存在するものをそのまま利用する能力であるにひきかえ、人間の生活能力は世界を目的意識的に改造し変革する創造的能力である。人間に世界の主人として生きようとする要求(自主的要求)があるということは、自主性があるということを意味し、人間が世界を目的意識的に改造し変革する創造的能力があるということは、創造性があるということを意味する。自主性は世界と自己の運命の主人として自主的に生き、発展しようとする社会的人間の属性であり、創造性は目的意識的に世界を改造し、自己の運命を切り開いていく社会的人間の属性である。
自主性と創造性についていま少し具体的にみることにしよう。
 自主性と字義通りに解釈すると、自分自身が主人となろうとする性質である。自分自身が主人になろうとする要求はひとり人間だけが提起できる。
 動物は環境を改造する創造的能力がないため、自然にある生活資料に依拠して自己の要求を実現するほかない。動物にどのような生活要求が提起でるかというのも、自然環境になにがあるかということにかかわっている。動物は自然に順応する方法によってのみ生存することができ、自然の変化発展法則によってその運命が決定される。したがって自己の運命の主人にはなれず、自然と運命をともにする自然の一部分にしかなれないのである。
 これとは異なって、人間は、自然の変化発展法則を科学的に認識し、それにもとづいて自然を自己の要求に即して改造し、自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく唯一の自主的存在である。人間には周囲世界を改造し変革する創造的能力があるため、環境に束縛されず主動的に、能動的に自己の要求を提起する。そのために人間は周囲環境に全的に依存して生きていく動物とは異なって、自然と社会の束縛と従属から脱却し、世界の主人として生きようとする自主的な要求をもち、その実現のために積極的に活動する。
社会的存在である人間にとって自主性は生命である。
 人間が自主性を失えば動物のように生きることはできても、人間らしく生きることはできない。そのため人間は自主性を生命よりも大切にし、生命を捨てるようなことがあっても自主性を守るためにたたかうのである。
自主性とともに創造性も人間に特有の性質である。
動物には自然環境にそなわっているものを利用する生活能力しかないが、人間には客観世界を自己の要求に即して改造する創造的能力がある。
もちろん人間も自然にある生活資料をそのまま利用しもする。しかし人間が自然環境にあるものをそのまま生活に利用するのはまれであり、そこには本質的な意義がない。人間は基本的に創造的活動に依拠して生きていく。人間にだけ創造的能力があり、それによって人間は動物とは比べようもない有力な存在になるので、創造性を人間の本質的特性であるというのである。人間は物質世界において唯一の創造的存在である。
人間には自主性、創造性があるばかりでなく、意識性もある。意識性は、世界と自分自身を把握し改造するすべての活動を規制する社会的人間の属性である。意識は世界の本質を把握し、行動計画を立て、人間のすべての活動をコントロールする人間の脳髄の高級な機能である。人間の脳髄をぬきにした意識現象はありえない。
 意識は、内容上、思想意識と科学技術知識に分けることができる。思想意識は人間の要求と利害関係を反映した意識であり、科学技術知識は物質世界の本質とその改造方法を反映した意識である。科学知識は世界の本質と運動発展の合法則性を反映した意識であり、技術知識は世界改造の方法を与える意識である。人間は思想意識と科学技術知識によって、自己の自主的要求に即して世界を創造的に改造する活動をくりひろげるのである。
 意識によって、人間は世界の本質を把握し、世界の改造方法を体得する。自然環境にそなわっているものをそのまま利用しながら生きる動物には、物質世界の本質を把握する必要がなく、そのような能力もない。しかし人間は、意識があるため、物質世界の事物現象の本質とその運動発展の法則を科学的に認識し、その改造方法を研究し体得することができるのである。こうして、人間は世界を自己の意思と要求に即して改造する創造的活動をくりひろげるようになる。
意識はさらに、人間が計画をたて、それに従って行動できるようにする。人間は意識をもつため、事物現象の本質を把握し、自然界にないものを創造する行動計画をたてる。
意識はまた、人間のすべての活動を合理的にコントロールする。意識は人間が目的通りに活動できるようコントロールし、強い意志をもって困難を克服し、目的を達成するようにする。
 このように、世界を把握し改造するすべての活動を合理的にコントロールする属性は人間だけにあり、したがって意識性は人間の重要な本質的特性である。
人間の本質的毒性である自主性と創造性、意識性は深くかかわりあっている。
自主性と創造性の関係は、目的と手段の関係に、にているといえる。自主的に生きようとする要求が人間の生活の目的であるならば、創造的能力はそれを実現する手段である。目的が明白であってこそ、それに見合って手段が利用できるように、自主的要求があってこそ、創造的能力が発揮でるのである。また手段があって目的が実現できるように、創造的能力があってこそ、自主的に生きようとする要求が実現されるのである。
自主性と創造性は意識性によって裏打ちされる。言いかえれば、意識性は自主性と創造性が形成され、作用するよう保障する役割を果す。人間が自主的に生きようとする要求は、本能的な要求ではなく意識的な要求であり、したがってそれは、意識の助けをかりて形成され作用する。人間が創造的能力をもって創造的活動をおこなうのも、意識なくしては考えられない。人間の創造的能力は、科学技術知識のコントロールのもとに作用する物質的力である。
意識性が自主性と創造性を裏打ちするということは、決して意識性が自主性と創造性を生みだしたとか、代替できるということを意味するのではない。意識性は自主性と創造性を裏打ちし、その作用をコントロールする機能を果すだけである。
自主性と創造性、意識性は社会的属性である。自主性と創造性、意識性が社会的属性であるというのは、それが先天的な属性ではなく、社会的、歴史的に形成され、発展する属性であることを意味する。
もちろん人間も動物と同じく、脳髄その他の肉体を親からもらう。人間の肉体は動物の肉体に比べてはるかに発達しており、調和がとれている。人間の発達した脳髄と調和のとれた肉体構造をもっているため、抽象的な思惟や創造的な労働活動が可能であり、したがって自主性、創造性、意識性を身につけることができるのである。
しかし発達した脳髄と調和のとれた肉体構造はあくまでも、人間が自主性と創造性、意識性をもつための生理的基礎にすぎない。発達した脳髄をもち、肉体構造が調和のとれた人間であっても社会生活を営まないならば、自主性と創造性、意識性をもつことができない。
生まれたばかりの子どもを社会と分離して独りで育つように放任すると仮定してみよう。この場合、その子が自主性と創造性、意識性をもつことができるだろうか。独りで育てば言葉も必要なく、抽象的な思惟もできない。意識のないかれは、自主的要求や創造的能力ももちえない。だから社会を離れては、人間の自主性、創造性、意識性について語ることはできない。
このように、自主性、創造性、意識性は社会的にだけ形成され発展する社会的属性である。
以上、人間には自主性と創造性、意識性が本質的属性としてそなわっていることを考察した。

 つぎに、人間が社会的存在であるということを考察しよう。
 動物は生物学的存在であり、人間は社会的存在である。人間が社会的存在であるというのは人間が社会的属性をもち、社会関係を結んで生きていく存在であるということを意味する。人間に社会的属性があるということについては、すでにふれたので、個々では人間が社会関係を結んで生きる存在であるということだけを考察する。
動物と人間の重要な差の一つは、動物が生物学的関係を結んで生きるのにひきかえ、人間は社会関係を結んで生きるということにある。
生物学的関係は動物の本能にもとづいて結ばれる関係である。動物の本能というとき、それは個体保存の本能と種保存の本能をさす。ところで、動物は自然環境に順応する方法で個体を保存するため、個体保存のため動物のあいだの相互関係は大きな問題として提起されない。したがって、動物相互の間係は、主に、種保存の本能にもとづく関係であるといえる。それゆえ動物が結ぶ生物学的関係はきわめて狭小で単純である。そしてその関係は動物の本能が変わらない以上変化しない。

 これとは異なって、自主性と創造性をもつ存在である人間は、目的意識的に協力する社会関係を結んで生活する。

 生物学的関係が動物の本能にもとづいて結ばれる関係であるならば、社会関係は自主的に創造的に生き、発展しようとする人間の本質的要求にもとづいて結ばれる関係であるといえる。人間は世界の主人として自主的に生きようとする要求と、創造的に発展しようとする要求を実現するための社会関係を結んで生活するようになった。社会関係は人びとの自主的要求を正しく実現し、かれらの創造的能力を活用するための社会的秩序である。動物の本能にもとづく生物学的関係は、単純で狭小であり盲目的な関係であるが、人間の自主性と創造性、意識性にもとづいた社会関係は、比べようもなく複雑で幅の広い関係であり、目的意識的な関係である。

 社会関係は人びとの目的意識的な結合関係であるため、目的意識的に改造することができる。人びとは自主的な思想意識水準が高まり、創造的能力が大きくなるにつれて社会関係をたえず改造していく。これは、原始社会から奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会を経て社会主義社会へと発展してきた人類社会の発展過程が確証している。人間の自主性と創造性、意識性の発展に上限がないように、社会関係の発展も果てがない。

 人間は社会関係を結びそれを発展させて、相互協力を無限に拡大し、集団的存在としての優位性を最大限に発揮する。ここに社会的存在としての人間の重要な優位性の一つがある。

 以上のように、人間は自主性と創造性、意識性をもつ社会的存在として物質世界でもっとも発達した有力な存在となる。

 人間は物質世界においてもっとも発達した有力な存在であるため、つねに周囲世界にたいして主動的に対応し、世界を能動的に改造していく。こうした意味で、人間は物質世界の一部分であるが、他の物質とは区別される特殊な存在であるというのである。


(3)人間と世界の関係

 物質世界の一般的特徴と人間の本質的特性の解明につぐ重要な問題は、人間と世界の関係問題である。これが明らかになれば、人間の運命の主人はだれであり、それを開拓する力はどこにあるのか、という問題もおのずから解明されるであろう。

 一般的に、事物の関係は、それらの属性をふまえて成り立つものであり、そこでは、より発達した事物のもつ、優れた属性が規則的に作用する。

 人間と世界の関係においてより発達した物質的存在は人間である。したがって両者の関係では、人間の属性が決定的な作用をする。

 金日成主席はつぎのように述べている。

 「人間は自主性と創造性をもった社会的存在であり、まさにこれによって人間は世界における主人としての地位をしめ、すべてを決定する役割を果します」(『ユーゴスラビア共産主義者同盟中央委員会機関紙「コムニスト」責任主筆の質問にたいする回答』日本語版3ページ)

 世界でもっとも発達した物質的存在である人間の本質的属性は自主性、創造性、意識性である。したがって人間と世界の関係は自主性、創造性、意識性によって規定される。

 しかし意識は先にもふれたように、自主性と創造性を裏づける作用をするので、人間と世界の関係を考察するには、人間が周囲の世界と自主性をもって結ぶ関係と、創造性をもって結ぶ関係だけをみればよいであろう。

 人間が自主性をもって周囲の世界と結ぶ関係は、主に、世界にたいする人間の地位として表現され、創造性をもって結ぶ関係は、主に、世界の発展における人間の役割として表現される。

 人間が世界で主人の地位を占め、世界の発展で決定的役割を果す、というのが人間と世界の関係における基本的内容である。

 では、この問題を具体的にみることにしよう。

 人間と世界の関係において一つの側面は、人間が世界で主人の地位を占めるということである。これは人間が世界を自分の要求に従わせるということを意味している。

 一般的に、生物有機体は生存と繁殖をはかって生活環境を能動的に利用する。いかに高等な動物であっても、必ずしも生活環境をその主人として自己の要求に従わせるとは限らない。人類の発生以前、爬虫類が世界でもっとも発達した物質的存在であった時期があった。しかしそれらの爬虫類が世界の主人であったとはいえない。爬虫類もまた他の動物と同様、ただ自然に順応して生きる自然の一部にすぎなかったのである。

 自主性をもつ存在である人間は、自然の変化発展法則を科学的に認識したうえで、自然を自己の要求どおりに改造し、従わせる世界の有力な主人である。

 人間は、自然の変化発展法則に従って自然と運命を共にする存在ではなく、人間の社会に特有な運動法則に従って、自己の運命を自主的、創造的に開拓する社会的存在である。自然を改造する人間の創造的役割が高まるにつれて、世界の主人としての人間の地位はさらに向上し、物質世界は人間によりよく従うように改造されるのである。世界の主人となれるのは、自主的な生活要求をもつ人間だけである。

 人間が世界で主人の地位を占めているということは、人間が世界を完全に支配しているという意味ではない。それと人間が世界をどの範囲まで支配しているかということは別問題であって、人類発展の一定の段階で人間の支配する世界は有限である。実際、こんにち人間が支配している世界は決して広いとはいえない。しかし人間は支配する世界の大小にかかわりなく、世界に従属して生きるのではなく、それを改造し、自分に従わせながら生きていくのである。従って自主性と創造性をもつもっとも発達した物質的存在である人間が、世界を支配する主人となるのは当然である。人間はそのような意味で世界を支配する主人であるというのである。人間の自主的要求と創造的能力が高まるにつれて、人間はより広い世界を支配するようになり、世界が人間のための世界にますますその様相を変えていくであろうことは疑いをいれない。

 人間と世界の関係でいま一つの側面は、世界の発展で人間が決定的役割を果すということである。人間は世界の主人の地位を占めるだけでなく、世界の発展で決定的な役割を果している。

 それは人間が創造性をもつ存在つまり創造的存在であるからである。人間は創造性をもつ存在、創造的力をもつ存在である。

 物質世界では、力学的な力をはじめ物理的、化学的、生物学的な力そして人間の社会的力など、さまざまな力が複雑にからみあっている。そこで、力学的、物理的、化学的、生物学的力は決して弱くなく、物質世界の運動変化に大きな作用をおよぼしていることは確かである。しかし物質世界の変化発展に決定的な作用をするのは人間の創造的力である。

 意識によってコントロールされる物質的な力である人間の創造的力は、必要な対象に目的意識的に作用するため、物質世界の変化発展で、盲目的に作用する力よりはるかにすぐれている。

 また、人間の力には、肉体的に直接体現されている力、つまり肉体的な力だけでなく、人間の力の延長として機械や技術の力も含まれている。人間は機械や技術を不断に発達させてその力を客観的に蓄えていくため、身体の構造を変えることなくその力を際限なく増大させていけるのである。

 人類社会の初期と現代を比較してみると、人体の構造には大きな変化がみられないが、人間の創造力は驚くほど成長していることがわかる。出現初期、原始的な用具で狩猟などをしながら生きた人類が、今日では、電子工業やロボット工業によって生産力を著しく高め、地球改造の範囲を越えていまや宇宙征服の新時代に入っている。

 このように、目的意識的に作用する力、無限の創造力をもつ唯一の存在である人間は、世界の変化発展において決定的な役割を果すのである。だがそれは、世界の変化発展がすべて人間によって左右されるという意味ではない。世界にはまだ人間の力のおよばない多くの連動変化がある。

 しかし物質世界で創造力をもつ唯一の存在である人間は、その要求どおりに世界を変化発展させている。そのような意味で、人間は世界の変化発展において決定的な役割を果すというのである。人間の創造力の発展には上限がなく、科学や技術、機械の不断の発達につれて、世界の発展で果す人間の役割はますます高まるであろう。

 人類は、その発生以来、世界の改造、発展で決定的な役割を果してきたが、それは、将来も永遠に変わることがないであろう。

 以上のように、人間と世界の関係、つまり世界で人間が占める地位と役割を明らかにしたチュチェ哲学の原理は、人間の運命の主人は誰であり、それを開拓する力は何であるか、という問いに明確な解答を与えている。それは、人間は自己の運命の主人であり、その運命の開拓で決定的な役割を果す、ということである。

 人間は、孤立して生きるのではなく、世界のなかで生きるので、人間がその運命を開拓する過程は、世界を改造し、自己に従わせることによって生きる道を切り開いていく過程であるといえる。したがって、世界の主人と人間の運命の主人は一致する、という結論が引き出される。世界を改造し、服従させる主人がほかでもなく人間の運命の主人になるのである。そして人間は自主性をもつ最も発達した物質的存在であり、世界の主人の地位を占めるので、自己の運命の主人にもなるのである。

 人間の運命の開拓で決定的な役割を果すのはなにか、という問題にたいする解答も、世界の発達で決定的役割を果すのはなにか、という問題の解明によって得られる。

 人間の運命を開拓する過程は世界を発展させる過程であるため、世界発展の決定的力が人間の運命開拓でも決定的な役割を果す。そして世界の発展で決定的役割を果すのは創造性をもつ人間であるため、人間はその運命を開拓するうえでも決定的な役割を果すのである。

 では、人間の運命開拓において、自然や社会などの環境はどのような影響を及ぼすのであろうか。

 もちろん人間は、その生活と発展の過程で自然や社会など環境の影響を受けることは事実である。自然や社会の環境は、人間の運命開拓で有利にも不利にも作用する。

 問題は、人間が自然や社会の環境を主動的に改造することにある。人間がただ環境の影響を受けるだけだとしたら、人間の運命開拓に及ばす環境の影響を重視すべきであろう。しかし人間は、自然や社会の環境を自己の要求に即して不断に改造し、それらを人間により有利に変化させていく。環境が人間に与える影響よりも、人間が環境に与える影響の方がはるかに大きいのである。したがって人間の運命開拓において決定的な役割を果すのは、自然や社会の環境ではなく、人間そのものであるといえるであろう。

 チュチェ哲学的原理は、人間の運命開拓の合法則性にたいする正しい理解を与える。

 人間の運命開拓の過程は、世界で占める人間の地位と役割が高まる過程である。世界で占める人間の地位と役割は、相互に作用しつつ高まっていく。人間が世界を変化発展させるうえでより大きな役割を果せば果すほど、人間が世界で占める主人の地位は高まり、それにつれて世界の変化発展で果す人間の役割も大きくなる。これは、社会生活においてより多くの仕事をした人がより多くの分配を受け、そのことから、さらに有利な条件で働けるようになるのと同じ道理である。地位と役割が相互に作用しつつ不断に向上する過程をとおして、人間は世界を自分に有利に変え、自己の運命をよりよく切り開いていくのである。

(4)自己の運命の主人である人間、人民大衆の守るべき根本的な立場と方法

 チュチェの哲学的世界観は、人間の運命を科学的に解明しただけではなく、運命開拓のたたかいで守るべき根本的な立い場と方法を示している。

 人間の運命にたいする見解は運命についての知識を与えるが、運命開拓で守るべき立場と方法は、運命開拓の方法論を与える。哲学的世界観は、人間の運命にたいする見解だけでなく、運命開拓上守るべき立場と方法を示してこそ実践的な指針となり、人民大衆の運命開拓に寄与する正しい世界観となれるのである。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「チュチェ思想は、人間が世界において主人の地位をしめ、世界の発展と人間の運命開拓において決定的役割を果すという哲学的原理から出発し、つねに人間を中心にすえ、すべてのことに自主的に対応し、人間の地位と役割の向上に寄与するよう、創造的に活動することを要求します。自主的立場と創造的立場が、すべての認識と実践活動で堅持すべき根本的立場、根本的方法となる根拠がここにあります」(『チュチェ思想について』1989年度日本語版159ページ)

 チュチェ哲学が明らかにしたように、人間は自己の運命の主人であり、自己の運命を切り開くうえでも決定的役割を果すという原理をふまえて、運命開拓のたたかいで自主的立場と創造的立場を守るという要求が提起される。自主的立場は人間が運命の主人としての地位を守る立場であり、創造的立場は人間がその運命を切り開くうえで決定的役割を果すための方法である。自主的立場と創造的立場を堅持してこそ人間は、運命の主人の立場と役割を守れるのである。

 人民大衆は自己の運命を開拓するたたかいで、なによりも自主的立場を守らなければならない。

 自主的立場は、人民大衆が自己の運命開拓上提起されるすべての問題をその利益に即して、自力で解決する立場である。

 人民大衆の運命開拓のたたかいは、自主性をめざすたたかいである。人民大衆は自然の束縛と社会的従属から抜けだして世界の主人となるためのたたかいを通してのみ、自己の運命を切り開いていけるのである。自主性の実現をめざす人民大衆のたたかいは、人民大衆自身の力によってのみ進めることができる。いかなる力も人民大衆に代って、自主性獲得のたたかいをおし進め、かれらを世界の主人の地位に押しあげてはくれないであろう。

 人民大衆は自主的立場を守り、すべての問題を自己の利益に即して、自力で解決してこそ、世界の主人、自己の運命の主人になれるのである。

 人民大衆は国を基本的な単位として生活し、自己の運命を切り開いている。今日、国家間の関係はますます密接になりつつあるが、生活の基本的単位、運命開拓の基本的な単位は依然として国である。したがって各国の人民大衆は自主的立場を守り、自国の革命と建設を自己の要求と利益に即して自力で進めていかなければならない。各国における革命の主人はその国の人民であり、革命と建設をおし進める力もその国の人民にある。人民大衆が自主的立場を守るとき、はじめて各国の革命と建設は成功裏に進められ、人民大衆の運命も順調に切り開かれるのである。

 自主的立場はなによりも、人民大衆が運命開拓のたたかいで主人としての権利を行使することを要求する。

 国づくりにおいて主人の権利を行使するというのは、人民大衆がそこで提起されるすべての問題を、独白の判断と決心によって、自己の利益に合わせて処理していくことを意味する。自分自身のための事業は、独自の決心によって自己の利益に合うよう処理するのが当然である。各国の人民は、自己の問題を独自の見解によって自己の利益に合うよう処理する権利をもっている。各国の人民は、他国のいかなる圧力や干渉も許してはならない。圧力と束縛を受けて自分の問題を自分の決心で処理できないなら、それは主人としての権利を奪われたことを意味し、他人の意思にしたがって自分の利益を損なう行動をすれば、それは主人としての権利を放棄することを意味する。

 つぎに、自主的立場は、人民大衆が自己の運命を切り開くたたかいで、主人としての責任を果すことを要求する。主人としての責任を果すということは、人民大衆が国づくりで提起されるすべての問題を、自らの責任で、自力で主人らしく対決していくことを意味する。

 自己の運命の開拓は、自力で進めるのが原則である。他人の世話で生きようとするのは、愚かで恥知らずなことである。もちろん自己の運命を切り開くうえで、他人の援助を受けることもあるうるが、基本は自力を信ずることである。各国の人民は、自分の負担を他人に転嫁しようとしたり、人の世話で自分の問題を解決しようとすべきではなく、自分のことは自力更生の原則で自力で最後までやり通すという立場を守らなければならない。

 人民大衆は、自己の運命を切り開くたたかいで自主的立場と共に創造的立場を守らなければならない。

 創造的立場を守るというのは、国づくりで人民大衆が力と知恵を最大限に発揮し、すべての問題を具体的実情に即して解決するということである。

 創造的立場は、世界の改造者、自己の運命の開拓者である人民大衆の守るべき立場である。人民大衆が自然と社会の改造を通して自己の運命を切り開くためには、不断に創造的活動をくりひろげなければならない。自然を改造し物質的財貨の増大をはかるのは創造的な仕事である。自然には、人間の生活と発展に必要な財貨が最初からそなわっているのではない。食料をあるいは穀物を栽培し、家畜を飼育しなければならない。衣服を得るには、綿花の栽培、養蚕あるいは化学的方法で繊維を生産しなければならない。住居を得るには、材木やセメント、煉瓦、鉄材などを生産しなければならない。また、そのためには、いろいろな機械を作り、科学技術を発展させなければならない。創造的な活動を離れてそのどれも解決できないし、生きていくことができない。

 社会の改造も同様である。社会を改造するということは、人間の自主的要求に合った新しい社会関係をつくっていくことである。それは、創造的活動を離れておのずと進められるものではない。

 このように、自然や社会を改造する活動はすべて無から有を作り出す創造的な仕事である。これは、人間、人民大衆が自己の運命を切り開くためには、つねに創造的立場を守らなければならないということを示している。創造的立場を守れないと、自然や社会を自分の意志と要求通りに改造できず、自己の運命を自力で切り開くこともできない。

 創造的立場はなによりも、人民大衆が自己の運命を切り開くうえで、自分の知恵と力を最大限に発揮することを要求する。

 人民大衆はもっとも有力な知恵のある存在である。社会を改造するのも人民大衆であり、貴重な財貨を作りだすのも人民大衆である。人民大衆の運命は、大衆の無限の力と知恵に依拠するときはじめて、成功裏に切り開いていけるのである。大衆に依拠し、大衆を動かすのはもっとも積極的な方法であり、国づくりにおいてすべての潜在力と可能性を余さず引きだす方法である。

 創造的立場は、人民大衆を世界におけるもっとも有力な存在とみて、かれらの創造的知恵と力を発揮させることによって、国づくりを主動的におし進め、自己の運命を順調に切り開いていけるようにする。

 創造的立場はまた、人民大衆の運命を具体的な実情と条件に即して正しく切り開いていく方法である。

 人民大衆の運命の開拓は、多様なそして不断に変化する現実のなかで進められている。国ごとに民族的特性や自然地理的な条件が異なり、当面している任務や社会、経済の発展の水準に格差があり、内外の情勢もたえず変化しているのである。

 このような状況のもとで、人民大衆の運命を正しく切り開いていくためには、既成の理論や他国の経験をうのみにする教条主義的な態度を排し、すべての問題を創造的に解決していかなければならない。多様な環境と条件のもとでくりひろげられる人民大衆の運命開拓のたたかいで、どの時期、どの国にもあてはまる万能の「処方」や「公式」はありえない。なんであれ旧来の枠に合わせたり、他人のやり方をうのみにしたり、機械的に考えるのはもともと有害なことである。このような立場にたてば、創造性が抑えられて不断に変化する複雑な現実を正しく認識できず、問題解決の鍵も得られない。

 創造的立場は、教条的態度を捨て、頭を働かせて現実を具体的に認識し、それにもとづいて問題を解決してゆく方法である。創造的立場は、つねに自己の経験を大事にし、他人の方法を受け入れる場合も、自国の具体的な条件と特性に合わせて加工し受け入れる方法である。創造的立場を守れば、人民大衆の運命はかれら自身の力によって、具体的実情に即して成功裏に切り開いていけるのである。したがって創造的立場は、人民大衆がその運命を切り開いていくうえで依拠すべき根本的な方法である。

 人民大衆がその運命を切り開くうえで守るべき根本的立場と根本的方法を明らかにしたチュチェ思想は、人民大衆が確信と勇気をもって国づくりに取り組み、自己の運命と、世界の主人になれるようにする正しい指針である。



2、人間の運命は社会的に開拓される

 われわれはこれまで、人間の運命を世界観の立場から考察した。即ち、世界のなかで生きる人間が果たして自己の運命の主人になれるか、という問題を提起し、人間は世界の主人であるため、自己の運命の主人でもあるということを明らかにした。

 しかし人間は、個々別々には世界の主人、自己の運命の主人になれない。人間の運命は社会的に、言いかえれば社会の発展過程に切り開かれるものである。そこで、つぎに人間の運命を社会と結びつけて考察することにしよう。


(1)人間は社会的にのみ生存し、発展する

 人間は、社会と離れて一人で運命を切り開いていくことはできない。動物は一人で食えるようになれば、親から離れて一人で生存することができる。しかし人間の場合はそうではない。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「人間は社会的にのみその生存を保ち、自らの目的を実現していきます」(同上22ページ)

 社会的存在である人間の運命は、社会という集団のなかで、互いに社会関係を結んで協力することによってのみ切り開いていくことができる。

 人間が栄養をとって生きていくためには、農業や畜産業、水産業、食品工業などを発達させて食べ物を生産、採取、加工しなければならず、そのために互いに社会関係を結び協力して生きていかなければならない。

 少し具体的にみると、まず、農業を営むにはトラクターなどのいろいろな農業機械が必要でるため、農民は必然的に農業機械の生産者と社会関係を結ぶことになる。

 原始社会では、労働用具を生産する分業が成立していたわけではなかろうが、それでも農耕に必要な労働用具はそれぞれの生活単位で協力して作ったはずである。もちろん当時の人間も単純な労働用具は独りで作ったであろうが、そういう場合も互いに社会関係を結び、社会生活を営むなかで作り方を学んだに違いない。

 このように、人間は単に食べるためにも、社会という集団のなかで具体的に社会関係を結び協力しなければならない。

 では、人間は他の人びととの関係を断って生きてゆけるのだろうか。ロビンソン・クルーソーは人界から遠く離れた無人島で、長年、独りで暮らした。そこでやぎを飼い、穀物も多少栽培したが、これはかれの生活がある程度、自主的で創造的なものであったことを物語っている。ところで、かれの自主性と創造性、意識怪がどこから生じたものだろうか。それは無人島の孤独な生活のなかで生じたものでなく、以前、社会生活をしていたときに得たもめである。銃にしても同じことがいえる。こうみると、ロビンソン・クルーソーは無人島で、単独で自然とたたかったのでなく、社会とともに自然に立ち向かい、それを改造しながら自己の運命を切り開いていったと見るべきであろう。

 このように、人間は個別的でなく集団的、社会的にのみ世界の主人、自己の運命の主人となれるのである。


(2)人間社会とはなにか

 社会を考察するにあたって、まずそれがなにから構成され、それらがそのように結合して社会という世界の一領域をなしているかをみることにしよう。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「社会は人びとと、かれらがつくりだした社会的財貨と、それを結びつける社会的関係からなっています」(同上159ページ)

 人間とかれらが作りだした社会的財貨とが社会関係を通して有機的に結合したものが社会である。ここで人間とかれらが作りだした社会的財貨とは社会の構域要素であり、それらを結びつけるのが社会関係である。

 では、まず人間についてみることにしよう。

 人間は社会の基本的構成要素である。それは、社会が本質上、人間の集団だからである。

 社会は人間の出現と同時に形成されたもので、自然と社会との根本的な違いは、自然には人間がなく、社会には人間があるという点である。人間のいない社会は考えることができない。それで、われわれは社会を人間社会というのである。

 人間は社会的運動の主な担当者である。ある事物が社会的存在であるかどうかを区分する基準は、それが社会的運動に参加しているかどうかということにある。ある事物が社会的運動に参加していれば、それは社会的存在であり、参加していなければ社会的存在とはいえないのである。

 社会的運動を起こし、おし進める主な存在は人間である。人間によって自然の改造や社会関係の変革、人間自身の発展などすべての社会的運動が起こり、おし進められるのである。

 社会的運動には、人間とともにかれが作った物質的・文化的財貨も参加する。

 物質的財貨にはわれわれが利用している物質的生活手段や労働手段などが属し、文化的財貨には科学技術の書籍や文芸作品、そして歴史の遺跡や文化財のように、人間の知識が客観的に体現されている社会的財貨が属している。このような物質的・文化的財貨は、人間によって作られたもので、人間とともに社会的運動の担当者となっている。例えば、労働手段は人間が自然を改造するさい、肉体的な力の延長として作用するのである。

 人間と物質的・文化的財貨はともに社会の構成要素であるが、人間はその主な要素である。

 金正日書記がつぎのように述べている。

 「社会的運動は人間が起こし、人間がおし進める人間の運動である。社会的運動を起こす原因も人間にあり、この運動をおし進める力も人間にあります」(同上160ページ)

 社会の構成要素のなかで、社会的運動を主動的に起こし、おし進めていくのは人間である。人間によって作りだされた物質的・文化的財貨は、それ自らが社会的運動に参加するのでなく、人間の目的意識的な活動が加わってはじめて、社会的運動に参加できるのである。

 例えば、自然改造運動には人間自身の労働力と、かれが利用する労働用具が参加するが、物質的財貨に属する労働用具は、人間の労働力が作用するときにのみ自然改造運動に参加できるのである。ここで、高度に自動化された機械、例えばロボットは人間の労働力の作用なしに自然改造運動に参加できるではないか、という疑問が出されるかもしれない。一見、もっともな疑問といえるが、ロボットは人間の精神的・肉体的力の作用なしには社会的運動に参加することができない。周知のようにロボットは、コンピューターの信号によって動く機械である、それが動作するにはまず人間がコンピューターの記憶装置に必要な内容を記憶させて、その信号を機械に送らなければならない。そして機械装置が信号によって動きつづけるようにするには、人間の労働力によって作られるエネルギー(電気または燃料)を供給しなければならない。このように、高度に自動化された機械も人間の労働力が加えられなければ作用しない。社会的運動は、すべて人間の主動的な作用によってのみ起こり、おし進められるのである。

 人間が社会的運動を主動的に起こし、おし進める担当者となるのは、人間が自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在だからである。

 人間は自主性をもつがゆえに、自然と社会の支配、改造を志向するのであり、創造性をもつがゆえに、創造的活動によって自然と社会と人間を自己の要求通りに改造してゆくのである。社会的財貨そのものは、人間のように自然と社会を支配し改造しようとする要求を提起することができず、ただ人間の創造性が発揮されるときにのみ社会的運動に参加できるのである。

 つぎに、社会の構成要素を結びつける社会関係とはどのようなものであるかを見ることにしよう。

 一般的に、いかなる存在であれ、その特性と発展水準をしるには、その構成要素とともに、それらの構成要素がどのような関係によって結ばれているかを明らかにしなければならない。

 黒鉛とダイヤモンドはともに炭素を横成要素としているが、硬度は同じではない。それは、それぞれの物質を構成する各要素の結合構造が異なるからである。

 先にもふれたように社会関係は、社会の構成要素相互の関係である。つまり、人間や社会的財貨など社会を構成する物質的存在の相互関係がほかならぬ社会関係なのである。しかし社会的財貨は、人間の活動を通してのみ社会関係を結ぶため、社会関係は本質上、人間相互の関係といえる。

 社会関係は人びとの社会生活における秩序である。人間は社会関係という社会的秩序を通して自己の生活要求を実現し、生活能力をもつようになる。

 社会関係は非常に複雑であるが、内容的には人びとの生活要求を実現するための秩序と、生活能力を擁護するための秩序から成り立っているといえる。すなわち、社会関係には、社会における人間の地位を規制する側面と人間の役割を規制する側面とがある。

 人間の社会生活は、政治、経済、文化の各分野で行なわれる。したがって社会関係は、政治的関係、経済的関係、文化的関係などに分けることができる。これらはそれぞれ政治生活、経済生活、文化生活の分野でしめる人間の地位を役割を規制する。

 社会関係は当該社会の性格を規制する重要な要因である。社会関係が、人民大衆が社会生活で主人の地位をしめ、主人としての役割を果たせるようになっていれば、そのような社会は人民的な性格を帯び、逆に社会関係が、小数の反動的階級が支配的地位をしめ、主人として振舞うようになっていれば、そのような社会は反人民的な性格を帯びるのである。

 以上、社会の構成要素とその結合構造について考察した。このことから社会とは本質において、一定の社会的財貨をもち、一定の社会関係によって結ばれて生きてゆく人間の集団である、ということができる。



(3)人間の運命は社会の発展とともに開かれる

 一般的に、人びとは社会の発展に大きな関心を向けている。それは社会の発展問題が人間の運命と直接にかかわっているからである。

 人間の運命は社会的にのみ開拓されるため、その発展をつうじて開かれるのである。

 では、社会はどのように発展するのであろうか。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「社会が発展するというのは結局、自然改造が進んで物質的財貨がより多く生産され、社会改造が進んで社会的関係がより合理的に変革され、人間改革が進んで人間がより高いレベルの思想的・文化的富をもって有力な社会的存在になることを意味します」(『教育事業をさらに発展させるために』日本語版3〜4ページ)

 事物が発展するには、その構成要素が増加し、それらの結合関係が変化しなければならない。

 社会も同様で、その構成要素である人間が発展し、社会的財貨が増大し、それらを結びつける社会関係が改善される過程を通して発展する。つまり、社会の発展は、人間を発展させるための人間改造、社会的財貨を増大させるための自然改造、社会関係をより合理的に改善するための社会改造を通してなされるのである。

 人間改造は人びとを精神的、肉体的により有力な存在につくり変え、歴史の主体を強化する創造的な活動である。言いかえれば、人びとを健全な思想意識と道徳を具備した存在、高度の文化的・技術的知識と壮健な体力を備えた有力な社会的存在につくりあげる活動である。

 自然改造は人間の生存と社会の発展に必要な物質的条件をととのえる創造的活動、言いかえれば、生産力を発展させ、社会の物質的財貨を増大させる活動である。

 社会改造は社会における人間の地位と役割を高めるために社会関係を発展させていく創造的な活動である。言いかえれば、政治関係、経済関係、文化関係など社会生活のなかで結ばれる人びとの相互関係である社会関係を人びとの要求に従って合理的に改造していく活動である。

 では、人間改造、自然改造、社会改造を通して、社会は具体的にどのように発展するのであろうか。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「社会的財貨と社会的関係は、いずれも人間がつくりだすものです。それゆえ、人間の自主的な思想・意識と創造的能力の発展にふさわしく、社会的財貨がつくりだされ、社会的関係が改善されていきます」(『チュチェ思想について』1989年度日本語版159ページ)

 書記が指摘しているように、社会はつねに、人びとの発展に相応して社会的財貨が増大し社会関係が改造されていくなかで発展する。

 人間が生き、発展するためにはまず、衣食住をみたすための物資的生活手段がなければならないが、それらはただ自然の改造を通してのみ得られる。それゆえ人びとは自然改造に強い利害関係を見出すのである。しかし自然改造はたんに衣食住問題にだけかかわっているのではない。衣食住はきわめて重要ではあるが、人間生活のすべてではない。

 政治生活と文化生活もまた人間の生活であり、そこでも物質的生活手段がなければならない。社会関係を合理的に変えていくための政治活動や人間を改造する文化活動は、いずれも物質的手段なしにはおし進めることができない。そこでは、経済生活に比べて物質的手段が少なく利用されるだけである。

 人びとの政治生活や文化生活に必要な物質的手段もまた、自然を改造して得る以外にない。

 結局、政治、経済、文化など社会生活の各領域における活動が円滑に進められるためには、物資的生活手段を得るための自然改造を中断することなくおし進めていかなければならない。

 社会生活の物質的基礎をつくる自然改造が順調に進むためには、担当者である人間の発展が先行しなければならない。

 ここで、人間が発展するというのは、自然を改造しその主人になろうとする人間の創造的能力が高まることを意味する。そうした能力は、人間の肉体的力が増大し、自然にたいする科学的認識力と自然改造に必要な技術知識が増えるにつれて高まる。

 ところで、現在の人間の肉体的カは千年や万年前のそれと比べても大きな変化がなく、将来もたいして変化しないであろうから、人間の創造的能力を高めるためには、自然を認識し改造する科学技術を発展させなければならない。

 自然を改造する人間の創造的能力で見落してならないのは、労働用具の問題である。

 人間は自然改造にさいして労働用具を使用する。その場合労働用具のレベルによって、人間の自然改造能力には格差ができる。レベルの高い労働用具を使用すればそれだけ、自然に働きかける人間の力は大きくなる。したがって自然を改造する創造的能力には人間がつくった労働用具も含まれることになる。とりわけ、経済の各部門で総合的機械化と全面的自動化が広く突施されている現状では、人間の創造的能力のレ、ベルは、主に、現代的労働手段のレベルによって規定されるといえるのである。

 このように、自然を改造する人間の創造的能力のレベルは、人間が身につけている肉体的力と科学技術知識、そして人間がつくりだした労働手段のレベルによって規定される。

 自然を改造する人間の発展にともなって自然の主人として生き、発展しようとする人間の自主的要求は高まり、創造的能力の向上につれて自然改造が進み、社会の物質的財貨は増大する。

 社会の物質約財貨は人間の社会生活に不可欠の客観的な物質的条件である。しかし生活の目的はそれに必要な物質的条件をととのえ、利用することだけにあるのではない。人間は社会の主人として生きることを望む。人間はいかに物質的に恵まれていても、なんらの社会的権利もなくさげすみいやしめられながら暮らすならば、生きがいがない。人間は社会の主人として社会的活動に進んで参加し、愛し協力しながら生活してこそ生きがいを覚え、幸せになれるのである。

 先にもふれたように、社会における人間の地位と役割は社会関係によって規定される。したがって社会において人間が主人の地位をしめ、主人の役割を果すためには、社会関係、つまり政治制度や経済制度、文化制度を合理的につくりかえていかなければならない。

 金日成主席はつぎのように述べている。

 「社会関係は人民大衆の自主的思想・意識と創造的能力の発展の程度に応じて改造されなければならず、社会改造は自然改造、人間改造とともに、たえまなく続けなければなりません」(『チュチェの革命の族を高くかかげ、社会主義・共産主義偉業を最後までなしとげよう』日本語版21ぺージ)

 社会関係は社会生活を通して結ばれる人間相互の関係で、その発展は人間の発展にもとづいてのみなされる。

 ここで、人間が発展するというのは、社会の主人として生きようとする人間の自主的な要求が高まり、社会関係、社会制度を改造する創造的能力が向上することを意味する。

 社会の主人として生きようとする人間の自主的な要求、自主的な思想意識は、社会の主人としての地位と役割の向上に有効な社会関係がどんなものであるかを自覚していくなかで高まる。そして社会関係を改造する人間の創造的能力は、社会の改造と管理運営に必要な知識が増大し、社会関係の改造にあずかる人民大衆の政治的勢力が強化されるなかで向上するのである。

 社会は原始社会から奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会、社会主義社会へと発展してきた。そして社会制度の移行は、その改造を求める人びとの自主的な思想意識とそれを改造する創造的能力が高まった状況のもとでのみなされた。

 以上、人間の発展レベルに応じた自然改造によって社会的財貨が増大し、そうした基礎のうえで社会改造が進められ、社会関係が合理的に改造されていく過程を考察した。このように、人間の発展にふさわしく社会的財貨が増大し、社会関係が改善されていくのが社会発展の一般的な合法則性である。

 人類史の各発展段階と各国で進んでいる社会発展の過程をみると結局、人間改造、自然改造、社会改造を通して人間が発展し、物質的財貨が増大し、社会関係が発展していることが分かる。

 もちろん国と歴史的時期によって三大改造つまり人間改造、自然改造、社会改造のしめる比重は同じでほない。例えば、独立をめざしてたたかう国では、人民大衆が社会改造を通して古い社会制度をくつがえし新しい社会関係をうちたてることに多くの力をそそいでおり、その方向にそって人間改造も進められている。他方、社会改造よりも自然改造に主力をふり向けて物質的財貨の増大に努め、人間改造もそうした方向で進めている国もある。

 人類の歴史をふり返ると、原始社会では人間の自主性と創造性のレベルはきわめて低く、命をつなぐのが当面の重大問題であった。したがってそこでは、自然改造が社会改造や人間改造よりも大きな比重をしめ、大きく取りあげられていたのである。しかし社会制度が交替するとき、例えば奴隷制から封建制へ、または封建制から資本主義へと移行する場合は、社会的に自主制をよりよく実現するための社会改造問題が大きく取りあげられる。社会改造が成功裏に進められ、階級的搾取と抑圧が一掃された社会主義社会では、人間改造をすべての活動に先行させながら、自然改造と社会改造を共におし進めていくのである。

 このように、社会の各発展段階や国ごとに進められてきた三大改造の過程をみれば、それらは、並行的にではなく、先になったり後になったりして進められてきたことが分かる。しかしどの社会でも、レベルにおける格差はあっても三大改造はたゆみなく進められ、そうしたなかで人間が発展し、それに相応して物質的財貨が増大し、社会関係が発展してきたのである。

 人間の運命の開拓に有利に社会の発展を促すためには自然改造、人間改造、社会改造がひとしく、全面的におし進められなければならない。

 一部の人びとは自然改造、人間改造、社会改造のどれか一つが進んでいるのをみて、あたかもそれが全般的な社会の発展を代表しているかのように評価している。例えば、自然改造が進んで物質的財貨が豊かな国の場合、かれらはその社会を非常に発展した社会であるとみるのである。

 しかし物質的財貨がいかに大量につくられていても、それにふさわしく社会関係が合理的に改善されていないと、社会全体を評価した場合、そのような社会は決して発展した社会とはいえない。自然改造が進んで物質的財貨の生産が大量になされていても、社会改革が進まず、経済関係等の社会関係がたちおくれたものであっては、生産された物質的財貨が合理的に分配、交換、消費されない。そして物質生活における不平等、生産と消費の不均衡などが生じ、ついには生産にも否定的な影響を及ばすことになる。物質的財貨は多く生産されて商店に品物が山と積まれても、不合理な経済制度のために多くの失業者や貧しい人たちが街をさまようことになれば、そのような社会を発展した社会といえるだろうか。

 他方、社会改造が成功裏に進んで社会制度は先進的に改造されても、自然改造が進まず物質的財貨が十分に生産できなければ、そのような社会のもとでは物質生活に不便をきたし、社会制度の優位性を発揮することはできなくなる。

 また、自然改造と社会改造が進んで物質的財貨が豊かになり、社会関係が先進的なものに変わっても、人間改造が進まず、人びとの思想意識や創造的能力が豊かな財貨や新しい社会関係をりっぱに管理できるだけのレベルに達していなければ、生産された物質的財貨は合理的に利用できず、社会制度はその優位性を発揮できなくなる。

 したがって社会を全面的に調和よく発展させるためには、自然改造、人間改造、社会改造をつり合い良く発展させていかなければならない。
 社会の発展を促す三大改革のなかで、先行させなければならないものは人間改造である。

 金日成主席はつぎのように述べている。

 「人間の活動は物質的条件と社会的条件によって制約されますが、物質的富を創造するのも人間であり、社会関係を改善するのも人間である以上、人間改造は発展させるうえで第一義的に力をそそぐべき最も重要な事業となります」 (同上18ページ)

 自然改造、人間改造、社会改造を全面的におし進めるためには、人間改造を他のすべての活動に先行させながら自然改造と社会改造を共に力強く進めていかなければならない。

 三大改造の担当者は人間である。

 人間自体を発展させる人間改造がつねに他のすべての活動に先行してこそ、それにふさわしく自然改造と社会改造も成功裏に進めていけるのである。

 悠久な人類史をふり返ってみるとき、社会が平坦な道を急速に発展することができず、ジグザグな経路をたどった原因はいろいろと考えられるが、最大の要因は人間改造を先行させつつ自然改造と社会改造を全面的に調和よく発展させることができなかったことにある。階級社会における支配階級=搾取階級は物質生活を豊かにしたいという欲求から物質的財貨をつくりだす自然改造にも利害関係を見出していた。しかし自然改造の担当者である人間の発展、即ち人間改造を目的意識的に先行させなかった。人間改造を先行させる場合も、自然改造の能力だけを発展させ、社会改造能力は抑制し、社会改造に向けての人民のたたかいを弾圧した。

 小数の反動的支配階級はその社会的地位と役割を保障する社会制度の維持をはかって、かれらの利益を守る反動思想をおしつけ、古い社会制度をくつがえし、新しい社会制度をうちたてようとする革命家や先進的な人びとを国家権力と暴力、懐柔、欺瞞などあらゆる手段と方法で抑制した。そして新しい社会制度をめざす革命勢力を暴力で制圧しょうとはかった。その結果、社会改造のための人間改造と社会改造は自然改造に比べて著しく立ちおくれることになった。しかし自主性を求める人民大衆の革命的進出が強まった結果、奴隷制社会は封建制社会に、封建制社会は資本主義社会にとってかわられ、今日では多くの人民大衆を社会の主人にならせるために、社会関係の合理的改造が進められている。今後ますます多くの国で、人民大衆はかれら自身が社会の主人となる社会制度をきずきあげていくであろう。

 階級社会では国家権力を掌握している少数の反動的支配階級の策動によって人間改造が先行されず、三大改造の足並が揃わなかった結果、社会発展は紆余曲折を経るほかなかった。

 人間改造、自然改造、社会改造の足並が揃うのは、人民大衆が主人となった社会においてのみ可能である。

 朝鮮では金日成主席と金正目書記の正しい指導によって、人間改造を他のすべての活動に先行させながら、自然改造と社会改造が同時に力強くおし進められた結果、革命と建設で大きな成果が達成された。

 なによりも人間改造が順調に進んで、社会の全構域員が一つの指導思想、チュチェ思想で武装し、その文化・技術も高いレベルに達した。今日、朝鮮には146万人のインテリ大集団があり、社会生活の各分野で大きな役割をはたしている。

 人間改造が順調に進んだ結果、自然改造と社会改造も大きく前進した。自然改造では14年というきわめて短い期間に工業化の歴史的課題が遂行され、自立的民族経済の強固な土台がつくられた。また、社会改造も成功裏に進められて、解放後まもなく人民大衆は国家権力と生産手段の主人となり、いまでは領袖、党、人民大衆が一つの運命共同体として統一団結し、社会制度は一段と強化されている。朝鮮では近い将来、無階級社会を実現し、すすんでは、人民大衆の自主性が完全に実現した理想社会をつくるために、社会の全構成員が三大改造をいっそう力強くおし進めている。朝鮮の経験は、人間改造を先行させながら自然改造と社会改造を共に力強くおし進めるとき、社会が急速に発展し、人間の運命は成功裏に切り開かれていくことを示している。

 実に、チュチェ思想は社会発展の合法則的過程と社会の全面的かつ急速な発展方向を明らかにすることによって、人間の運命を切り開く正しい道を示したのである。


3、運命の主人として生きる道

 人間は自己の運命の主人であり、開拓者である。したがって当然運命の奴隷としてではなく主人として生き、偶然の幸運などをあてにせずにそれを自らの力で獲得する開拓者として生きるべきである。

 運命の主人として生きる道を見出すか否かによって、人間の一生は幸福にも不幸にもなり、みちたりたものにも空しいものにもなるであろう。

 人類の発生以来長い歳月が流れ、その間無数の人たちが生まれては死んでいった。そのなかには、一生を意義深く送った人もいれば無意味に生きた人もいた。そこには、個人の安逸と享楽を求め、動物的欲求の奴隷となって生きた人もいれば、なんの業績も残さずに一生を無駄に送った人もいる。そのような人たちは、運命の主人として道を歩めなかった人たちだといえる。

 航侮する船に羅針盤が必要なように人生航格を進む人には、人生の指針が必要である。

 かつて、多くの思想家や哲学者、文学者が人生問題について思索し、それなりの見解を示した。そこには、生の価値や幸福、誇りなど人生に関する問題を倫理的に説いた『人生観』もあれば、教訓的な体験を回想した『回顧録』もあり、それらを形象的に描写した文学作品もある。

 それらは、生きがいのある人生を求める後世の人たちに一定の参考となった。

 チュチェ思想は、人間が自己の運命の主人として生きる道はなにか、という問題を提起し、その解答を理論的に体系づけた。

 一般的に、生命体が生きるというのは、それらが運動することを意味する。

 人間の生活は、人間というもっとも発達した生命物質の活動であるといえる。

 生命体の運動はその属性の発現であり、人間の運動である生活は、人間の属性としての生命の発現である。

 このことから、人間の生を考察するときは、それを二つの側面、即ち、生命の側面と生活の側面から考察すべきである。

 生命の側面でチュチェ思想は、人間には二つの生命、肉体的生命と社会的・政治的生命があることを明らかにしたうえで、自己の運命の主人としての人間の生命は社会的・政治的生命であると説いている。

 生活の側面でチュチェ思想は、人間の本質的属性にたいする科学的解明にもとづいて、それに見合った生活、即ち自主的、創造的かつ集団主義的生活こそもっとも幸福な誇りある生活であると指摘する。

 このようにみるとき、チュチェ思想が明らかにした運命の主人としての人間の生の道は、社会的・政治的生命をもって自主的、創造的かつ集団主義的な生活を享受することにある。


(1)自己の運命の主人として生きるためには、社会的・政治的生命を輝かせていかなければならない

 人間に生命があるというのは周知の事実である。生命は物質ではなく、生命体=物質の属性である。

 物質は生命物質と無生命物質に大別できる。

 本論で扱う問題は生命物質一般の生命問題ではなく、もっとも発達した生命物質、つまり人間の生命問題である。

T 人間は肉体的生命と共に社会的・政治的生命をもっている

 従来、生命というとき、それは肉体的生命をさしていた。その正否はあとで論ずることにするが、一般的にそう考えるのにはそれだけの理由があった。

 人間は生命をもって生まれ、死亡と同時にそれを失うことから、生命というとき、肉体に属する生命のみが思考の対象となったのである。生物学的見地からすれば、人間の生死判断の基準が肉体的生命の有無にあるとみるのは正しい。そこで、反封建闘争期の啓蒙思想家をはじめ多くの哲学者が人間の生命問題を議論しながらも、それらはいずれも、肉体的生命の枠を越えることができなかったのである。

 先にも述べたように、チュチェ思想は、人間には肉体的生命のほかに社会的・政治的生命といわれるいま一つの生命があることを示し、それら二つの生命がどのようなものであるかを明らかにした。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもっています。肉体的生命が生物有機体としての人間の生命であるなら、社会的・政治的生命は社会的存在としての人間の生命であります」(『チュチェ思想について』1989年度日本語版22ページ)

 人間は生物有機体としての肉体的生命とともに社会的存在としての社会的・政治的生命をもっている。

 人間も肉体的な器官をもち、物質代謝など動物一般に共通な一連の特性をそなえている。肉体的器官の発達過程や機能において他の動物とある程度の格差はあるが、生物有機体の共通の特性は人間にもそなわっているのである。したがって、人間に生物有機体に共通する生命、肉体的生命があることは改めて説明するまでもない。

 人間は生物有機体であると同時に社会的存在である。つまり、人間は孤立的にではなく、他の人びとと関係を結び協力して生きながら、社会生活のなかでつくられ発展する属性を身につけた存在である。このような社会的存在としての人間がもつ生命が、ほかならぬ社会的・政治的生命である。

 人間がたんなる生物学的存在=生物有機体であるならば、人間にも生物有機体としての生命、つまり肉体的生命しかないであろうが、人間は他の生命物質とは違って社会的存在であるため、それに相応した生命、つまり社会的・政治的生命をもつのである。

 では、なにによって人間に肉体的生命とならんで社会的・政治的生命のあることが実証できるのであろうか。

 それに答えるためには、まず人間の生活を考察する必要がある。なぜなら生命は生命体の運動である生活を通して発現するからである。

 一般的に、生活とは、生命有機体が自己の一定の要求を自らの力で実現していく活動である。生命有機体はいずれも生きようとする要求をもち、それを自らの力によって実現する。

 ところで、人間の生活を他の生命有機体の生活、卑近な例として動物の生活と比較すると、明確に区別される特徴を見出すことができる。

 動物の場合は、生きようとする欲求、つまり一定の栄養を摂取して自己の生命を保ち、子を産んで種の増殖をはかろうとする欲求を自らの能力によって実現していくのが生活のすべてである。動物にはそれ以外の要求や生活があるとはいえない。このことは、動物には肉体的生命しかないことを示している。

 しかし人間は、肉体的欲求を充足する生活だけでは満足しない。もちろん人間にも食にたいする要求など生物学的要求があり、それを実現していく生活もある。このことから、人間には、肉体的生命があるというのであるが、だからといって、人間にはたんに肉体的要求を実現する生活しかなく、またそれが人間にとって基本であるというわけでもない。

 人間には肉体的要求のほかにも重要な社会的要求がある。したがって、肉体的要求をみたす生活のほかに社会的要求をみたす大切な生活がある。

 人間がもつ肉体的欲求やそれを実現する生活も動物のそれに比べるとはるかに高級で、多様な内容をもっているが、人間と動物の根本的な差はそこにあるのではない。それは、人間には社会的要求があり、それを充足する生活があるが、動物にはそれがないということである。

 人間はたとえ衣食住に恵まれ、十分に休息しながら暮らしていても、友もなく孤独に生き、文化・情操生活を楽しむことができないなら、そのような生活に幻滅を覚えるものである。また、人間は社会的な尊厳と愛情に包まれて生きることを望み、そのために努める。ひいては、一定の社会的・政治的組織に加わって自己の社会的・政治的権利を十分に行使し、社会的義務を全うする生活を望むのである。そうした要求や生活は、生物学的存在としての人間の肉体的要求やそれを実現する生活ではなく、社会的存在としての人間の社会的・政治的要求であり、それを実現する社会・政治生活なのである。

 人間にこのような社会的・政治的要求とそれを実現する社会・政治生活があるというのは結局、人間に社会的・政治的生命があるということを意味する。肉体的生命がなければ生物学的存在としての人間の生が考えられないため、それを生命と言っているのと同様に、社会的・政治的生命がなければ、社会的存在としての人間の生が考えられないため、われわれはそれをいま一つの生命と見るのである。

 人間は、社会的に結びつき集団を形成すれば、ここの人間ないしその肉体的結合体のような単純な結合体にはみられない新たな生活要求をもつようになる。

 例えば、人間は民族を形づくれば、民族の利益や尊厳を守り、繁栄をはかろうとする共通の生活要求をもつようになる。民族は、一定の社会的な共通した要求と利益関係によって結びついているという点で、肉体的要求などの生物学的要求によって結びついた生物学的結合体とは質的に区別される一つの社会的集団であるといえ、また社会的生命体であるともいえる。

 こうした社会的生命体を母体としている生命、そのような社会的集団に根をおろしている生命がほかならぬ社会的・政治的生命である。

 社会的・政治的生命は人間の出生とともにおのずからそなわる生命ではなく、社会生活によってそなわる生命である。

 肉体的生命は生まれながらのものである。人間は例外なく肉体的生命をもって生まれ、それは死亡するまで本人の肉体にそなわっている。そうした見地からすると、肉体的生命は自然が人間に与えた生命であるといえる。しかし社会的・政治的生命は人間が集団のなかで社会生活を営むなかでそなわるのである。そうした点で、社会的・政治的生命は自然ではなく、社会が人間に与えた生命である。

 先にもふれたように、社会的・政治的生命は本来、社会的・政治的集団の生命である。

 個々の人間はこの社会的・政治的集団の構成員といして一定の社会・政治生活をするとき、集団の生命を自己のなかに体現するのである。したがって個々の人間の社会的・政治的生命は集団の生命の一部であるといえる。

 肉体的生命が食べ物を摂解して得る栄養素によって維持され、生理的要求を実現する生物学的活動を通して引きつがれていくのにたいし、社会的・政治的生命は、社会的集団の要求を反映した集団の思想を精神的栄養素として摂取して維持され、集団の思想を実現するための思想・政治活動を通して引きつがれていく。

 したがって集団の要求を自己のものとして受け入れず、またその要求を実現するために意識的に活動しない人間は、集団と一体になって運命を共にすることができず、集団の生命である社会的・政治的生命を分けもつことができないのは明らかである。集団の一員として集団の要求を自己の要求とし、集団から授かった責務と役割を全うする人だけが社会的・政治的生命をもつ人間であるといえるのである。

 肉体的生命とは異なり、社会的・政治的生命は世界の主人、自己の運命の主人として生きる生命、自主的な生命である。

 主人として自主的に生きるというのは、世界の支配、改造という自主的な要求をもち、それを実現しながら生きることを意味する。

 社会的集団と離れた個人はそのような要求をもつことができず、たとえもったとしてもそれを能動的に実現しながら生きることができない。これは、個別的存在として生きる生命がなく、その肉体的生命は世界の主人として生きる生命、自主的な生命でないことを示している。

 しかし人間が有機的に結びついた社会を形づくれば、世界を改造し支配する創造的生命力がそなわり、かれらは世界の改造、支配を要求するようになる。そしてこの自主的な要求にふさわしく創造的な能力を駆使して、世界を改造しながら生きていく。これは、社会的集団の生命、社会的・政治的生命のみが世界の主人、自己の運命の主人として生きる生命、自主的な生命であることを示している。



U 社会的存在である人間にとって、社会的・政治的生命はもっとも貴重な生命である

 人間にとって肉体的生命も社会的・政治的生命も共に貴重であるが、より貴重なものは社会的・政治的生命である。

 金日成主席はつぎのように述べている。

 「社会的存在である人間にとっては、肉体的生命よりも社会的・政治的生命が大事であるといえます。たとえ命はつながっていても、社会的に見捨てられ、政治的自主性を失うならば、社会的人間としては屍も同然であります。まさに、そのために、革命家は他人の奴隷となって命を保つよりは、自由のためにたたかって倒れるほうが何倍も光栄であると考えるのです」 

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「人間にとってもっとも貴いものは生命です。生命のなかでも肉体的生命より社会的・政治的生命のほうが大切であり、個人の生命よりも社会的集団の生命のほうが大切です」(『チュチェ思想について』1989年度日本語版178から179ページ)

 人間は誰もが人間らしく生きることを願う。人間らしく生きるというのは、社会的集団と共に世界の主人、自己の運命の主人として生きることを意味する。ところで人間は肉体的生命をもつだけでは動物のように生きることはできても、世界の主人として人間らしく生きることはできない。もちろん人間には肉体的生命があるので、個人の肉体的要求をみたす生活も大切である。

 しかし人間の肉体的生命とそれにかかわる生活は、それ自体に目的があるとはいえない。社会的存在である人間にとって、肉体的生命は、社会的・政治的生命をもって、人間らしく生きるための手段としてのみ意味がある。

 古代ギリシャの歴史学者プルタルコスは、悪人は食べるために生き、善人は生きるために食べるといったが、それは教訓的である。

 正しい人間は、たんに個人の肉体的生命を保存し延命することのために食べることに関心を向けるのではなく、人間らしく生きるために、より正確にいえば、世界の主人として生きるための肉体的条件をつくるために食べ、健康を守ることに関心を向けるのである。言いかえれば、人間が肉体的生命を大切にするのは、動物のようにたんに食べ生きるためでなく、社会的・政治的生命をもって、世界の主人として人間らしく生きるためである。

 生活を通して体験しているように、肉体の生理的欲求をみたしたときに覚えるし喜びや快感より、社会的要求をみたしたときに味わう喜びや快感の方が比較できないほど大きいという事実は、肉体的欲求、肉体的生命より社会的要求、社会的・政治的生命の方が大切であることを示している。

 科学者が社会と人間のための有意義な発明をしたときの喜び、快感は、かれが山海の珍味にあずかったときの満足感や快感とは比べようもなく大きいのである。

 社会的・政治的生命がもっとも貴重な生命であるのは、それをもつときにはじめて社会と集団の発展に寄与できるからである。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「われわれが革命を行なうのは、自分白身と自分の世代ばかりでなく、次代のためであり、ひいては人類の未来のためであります。もし、人間がたんに自分自身の安楽のために生きて一生を終えるならば、残るものはなにもなく、そのような人生はなんのかいもない無意味なものとしかいえません。人生が生きがいのあるものとなるには、永遠に生きつづける集団のために寄与するところがあり、残るものがなくてはなりません」(同上214〜215ページ)

 人間は誰しも長生きすることを望む。しかし、人間にとって、どれだけ長生きするかが重要なのでなく、どう生きるかということがより重要である。もし、あるひとが百歳の長寿を全うしたとしても、人生を意味もなく生きたとしたら、そこに生きがいは見出せないであろう。

 人生の価値は、社会の発展と集団の自主性の擁護にどれだけ寄与したかによって決るといえる。たとえ長生きはできなかったにしても、社会と集団のために有益なことをしたなら、その人は生きがいのある生を送ったといえるのである。

 ところで、社会と集団の発展に寄与するためには、社会的・政治的生命がなければならない。肉体的生命しかない人間は自分の肉体の維持や生理的快楽のみを追い求めるので、社会と集団の発展には関心を示さなくなる。したがってそのような人間はいくら多くても、社会と集団の発展にはなんらの寄与もできない。そういう人間は肉体的生命はあっても、社会的人間としては屍も同然である。

 人間は社会的・政治的生命をもって人民大衆の運命の開拓に主人らしく参加し、その責務と役割を全うしてはじめて社会と集団の発展に寄与でき、ひいては、人類の発展と繁栄につくせるのである。それゆえ革命家は社会的・政治的生命を第一の生命とみなし、逆境にあってもそれを大切にし、肉体的生命を犠牲にすることがあっても、社会的・政治的生命は汚さないのである。

 社会的・政治的生命がもっとも責重な生命であるのは、それをもって生きてこそ永遠に生きようとする念願がはたせるということとも関連している。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「人びとは一つの社会的生命体として結びつき、社会的・政治的生命をもつことによってはじめて、自己の運命を自主的に切り開き、世界と自己の運命の主人として人間らしく生きることができます。個人の肉体的生命は尽きてもかれのもつ社会的・政治的生命は、社会的生命体とともに永遠に生きつづけるのです」(『みな英雄的に生き、たたかおう』11ページ)

 永遠に生きることは生命をもつ存在である人間の切実な念願である。それゆえ人びとは昔からそれに大きな関心をはらってきた。そして現世で愉楽を享受できなくても、「極楽世界」や「天国」で永遠の幸せをかなえることができるという信仰をいだいて生きてきた。それは、永遠に生きようとする願いを表現したのである。

 しかしその願いを実現する正しい道は、チュチェ思想によって示された。

 チュチェ思想はこの地上に永遠に生き発展する生命体があると教えている。それは、社会的集団であり、歴史の主体、人民大衆である。

 個人の肉体的生命には限りがあり、いつかは尽きるもので、誰も避けることができない。しかし個人の生死にかかわりなく、集団は永遠に存在し、発展する。一つの世代についで次の世代が登場し、その世代が終わればさらに次の世代が現れてその役割をはたす過程が連綿と続き、集団の生命と生活は不断に引きつがれていく。それゆえ人間は無限の生命をもつ集団と一体となって、集団と運命を共にしなければならない。集団の構成員が社会と集団に残した業績はその有限の肉体的生命とは関係なく、集団の生命力の強化に寄与する。そうした意味で、人びとが社会と集団のために積んだ業績は、集団と共に永遠に残り、肉体的生命は滅んでも社会的・政治的生命は集団とともに永遠に生きるといえるのである。

 ここに、つぎのような有名な詩がある。

   ぼくは解放された朝鮮の青年だ
   さんぜんたるぼくの生命、ぼくの希望、ぼくの幸福
   それは祖国の運命よりは貴くない
   一つしかない祖国のために
   二つとない命だが
   ぼくの青春を捧げることほど
   そんな貴い生命
   美しい希望
   偉大な幸福がまたどこにあろう

 これは、年少の身で祖国と人民のために肉体的生命を惜しみなく捧げた、朝鮮の一英雄の詩である。かれは社会的・政治的生命をなによりも貴び、その詩でうたった通り偉勲をたてたのである。それゆえ肉体的生命はつきても、朝鮮人民の心のなかには18歳という若々しい当時のかれの姿がそのまま生きているのである。

 肉体的生命よりも社会的・政治的生命を大切にし、それを光あらしめるために力をつくす道、つねに社会と集団を大切にし、集団と運命を共にする道こそ、真実に生きる道である。



(2)人間の幸せで生きがいのある生活は、自主的・創造的・集団主義的生活である

 先にもふれたように、生活とは一定の要求をみたすための人間の活動である。ところで、人間の要求には生理的要求とともに社会的要求がある。ここで、重要なことは、生物学的存在としての生理的要求をみたす生活に幸せと生きがいを求めるか、社会的存在としての社会的要求をみたす生活にそれを求めるかということである。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「チュチェ思想は、肉体的要求をみたすための生活は動物の生活と変わることがなく、領袖、党、大衆から離れた生活は人間の社会的本性に反する価値のない生活とみなします」(『チュチェ思想について』1989年度日本語版179ページ)

 肉体的生命の要求ないし、生理的要求の充足はそれ自体に目的があるのではなく、社会的要求をみたす手段としてのみ意義がある。社会的要求の充足は社会的存在である人間の理想であり、目的であるといえる。したがって、人間は当然この要求をみたす生活の真の幸せと生きがいを見出さなければならない。

 人間は自主性と創造性を本性とする社会的存在であるため、自主的、創造的に生きることを要求し、同時に集団的(社会的)に生きることを要求する。したがってこのような要求をみたす生活、即ち自主的で創造的な生活、集団主義的な生活こそ、幸せで生きがいのある生活なのである。


T 自主的な生活

 幸せで生きがいのある生活は、なによりも自主的な生活である。

 世界の主人、自己の運命の主人として生きようとするのは人間に特有な本性的要求である。こうした自主的な要求、主人として生きようとする要求を実現する生活が、とりもなおさず自主的な生活である。

 人間の自主的な要求、主人としての要求は、それを実現するために人間が主人としての責務を全うするときにのみ実現できる。したがって自主的な要求を実現する生活、自主的な生活は主人としての責務を全うする生活であるともいえる。

 人間は世界の主人であるために主人としての重い責務を負っている。

 動物は自然のあらゆる条件と可能性を利用して肉体を保存し子孫を残せばそれまでで、それ以外になんら責任を負う必要はないのである。

 しかし人間は世界の主人であるため、世界の発展と自分の運命にたいして当然責任を負わなければならない。自己の運命にたいして責任を負わず他人に頼って生きる生活は、主人としての生活、自主的な生活とはいえない。

 子供が母親になにかをねだれば、母親はその願いをかなえてやる。子供にはその要求を実現する能力がないが、母親にはそれがある。こうした意味で、自主的な生活の主人は子供ではなく、母親なのである。責任を知らずに生きる生活には、真の喜びも楽しみもない。ある評論家は「生活でもっとも崇高な楽しみは義務を果したときの喜びである」といったが、至言である。

 自主的な生活を自由な生活と比較するのは、その本質を理解する一助となる。一般的に、自由であると言うとき、それはいかなる束縛や制限も受けないことを意味する。このような意味で自由な生活とは、いかなる束縛や制限も受けずにその要求をみたす生活であるといえる。

 自主的な生活も、その要求をみたすうえでいかなる外的な束縛や制限も受けないという点では、自由な生活共通している。自主的な生活も要求充足の自由が保障されている生活だという点では自由な生活である。

 自主的に生きるには自由が保障されなければならない。つまり、世界の主人として生きる要求をみたすためには、外部世界の束縛から抜けださなければならないのである。

 そこで自由な生活と自主的な生活の本質的な差は、それがいかなる要求をみたす生活であるかということに求めなければならない。

 自由な生活では、いかなる要求をみたすかということは事実上問題にならない。この生活の理念は、生理的要求であれ、社会的要求であれ、また人間的要求であれ、動物的要求であれ、そのすべてが自由にみたされなければならない。

 しかし自主的な生活では、主人としての要求、自主的な要求の充足がその理念である。

 動物的な要求、反社会的な要求の充足はこの生活では許されない。ほしいままに食べ、眠り、働き、遊ぶ生活は自由な生活であっても、個人の向上と社会の発展に寄与する自主的な生活とはいえない。

 自主的な生活が主人としての責務を全うする生活であることは、すでに述べた。しかし自由な生活はなんらかの責務を前提とする生活ではない。このような点でも、二つの生活のあいだには根本的な差がある。

 社会にたいし責務を負っている人は、いつも気苦労が絶えない。しかしそうでない人には、そんな気苦労はない。

 デイケンズの小説中の人物である富裕な商人トンビーは物欲にとりつかれ、人間としての責務や良心、社会の運命にたいしては全く関心がない。しかし世のなかには世界と自己の運命の主人としての責務をつねに感じ、その遂行のために苦心し、そこに喜びを見出す人が多い。

 前者の生活は、金を儲けて使ううえでなんらの束縛も受けないという意味では、自由な生活であるといえるが、自主的な生活とはいえない。後者の生活は主人としての生活、自主的な生活と言える。

 わが子の将来にたいして全的な責任を負い、深く気づかう親こそ、家庭の主人としての立場に徹したりっぱな親であるといえるように、世界の主人としての真実な生活、自主的な生活をする人であるといえる。主人としての責務を感じ、それを果すために心を砕く人だけが、それを果したときに大きな喜びを感じるのである。ここで、心を砕くというのは主人として生き、向上することに寄与する心労である。

 以上、自主的な生活とは本質上どのようなものであるかをみた。

 では、自主的な生活のもつ具体的な内容はどのようなものだろうか。

 世界は自然、社会、人間から成り立っている。したがって世界の主人になるというのは、自然の主人、社会の主人、自分自身の主人になるということであり、世界の主人として生きようとする人間の要求は結局、自然の主人、社会の主人、自分自身の主人として生きようとする要求である。それゆえに自主的な生活とは具体的に、自然の主人としての生活、社会の主人としての生活、自分自身の主人としての生活を意味している。

 自主的な生活はなによりも、自然の主人としての生活である。

 自然の主人になるということは、自然の束縛から抜けだして豊かな物質生活をいとなむことを意味する。

 自然の束縛から抜けだして豊かな物質生活をいとなむことは、人間の本性的要求の一つである。このような人間の要求は自然を改造して物質的生活手段を十分にととのえてはじめて実現できる。物質的生活手段なしには、人間の生命自体を維持することができない。人間は食べるために生きるのではない。しかし衣食住の問題から先に解決しなくては、生存することができない。だから衣食住は人間生活のもっとも初歩的な問題であるといえるのである。

 人間はまだ衣食住の問題を完全に解決していない。そうした意味で、人間は自然の主人としての自主的な生活を完全に享受しているとはいえない。人間が少なくとも衣食住の問題にたいする心配から基本的に解放されてはじめて、社会、政治生活や文化生活にも主人らしく参加でき、自主的生活をいとなめるのである。

 自然を征服する人間の力が成長するにつれて、人間は自然をより広く深く支配し、より豊かな生活、より自主的な生活をいとなむようになる。

 自然は無限であるため、自然の主人となるためのたたかいは限りなく続さ、同じように物質生活も無限に発展するのである。

 自然の主人としての生活、豊かな物質生活は腐敗堕落した享楽主義的生活とは根本的に異なる。そのような生活は自主的な生活ではなく、奴隷的な生活である。阿片中毒者やアルコール中毒者は、阿片やアルコールの主人ではなく、その奴隷である。

 自主的な生活は自然の主人としての生活であるばかりでなく、社会の主人としての生活でもある。

 人間は自然の主人として生きることを要求するばかりでなく、社会の主人として生きることをも要求する。社会の主人として生きるということは、あらゆる社会的従属と不平等から抜けだして社会的・政治的権利を行使し、社会的・政治的責務を果しながら生きることを意味する。

 社会的従属と不平等から抜けだすことは、社会の主人として生きる重要な条件である。衣食住にみちたりた生活をしても、他人に従属し、さげすまれ、社会・政治生活で発言が許されていなければ、それは人間らしい生活とはいえない。

 社会の主人としての生活は、社会の要求を自らの要求としてとらえ、社会の運命と自己の運命を密接に結びつけ、社会的責務を全うする生活である。

 社会の主人としての人間は、個人の財産ばかりでなく社会共同の財産も大事にし、個人の人権ばかりでなく社会集団の尊厳も大事にする。このような人はまた、個人の運命ばかりでなく、社会集団の運命にたいしても責任を負い、社会的・政治的権利と同様、社会的・政治的責務も重視する。したがってこのような人は自分一人のためにのみ生きる人が感じない喜び、社会共同の要求でみたされる喜び、社会の発展に寄与する喜びを感じるのである。そうした人は幸せな人間である。トルストイが述べたように、幸福とは自らの精神的力と肉体的力を社会のために遺憾なく捧げたときに感じる誇りである。

 肉体的生命よりも社会的・政治的生命がより貴重であるように、自然の主人としての生活よりも社会の主人としての生活がより貴重である。人間は社会の真の主人になれずに自然の主人になれない。それゆえに人民の自主性を実現するための神聖なたたかいの先頭に立つ革命家は、物質生活の面であらゆる欠乏に耐えながらも、社会的従属をなくし、社会の主人として生きるために粘り強くたたかい、そこに誇りと生きがいを感じるのである。

 自主的な生活は、自然と社会の主人としての生活であるばかりでなく、自分自身の主人としての生活である。

 自分自身の主人になるということは、自主的な思想意識と創造的な能力をもって、自己のあらゆる活動を自ら主人らしくコントロールすることを意味する。

 人間は一般的に、自分自身の主人としての生活をいとなんでいると考えている。しかし自分自身の主人になることは容易なことではなく、自分自身の主人としての生活はたやすく実現できるものでもない。

 なによりも、自主的な活動を束縛する古い思想をなくし、自主的な思想をもって活動してはじめて、人間は自分自身の主人としての生活をしているといえるが、すべての人がそのような生活をしているわけではない。

 自主的な思想とは、主人としての要求と利害関係を反映した思想である。そうした思想をもってこそ、人間は主人としての要求と利害に反する欲望を抑制し、コントロールすることができ、つねに自主的な目標を提起し、その実現のためにたたかうことができるのである。極端な利己主義、物欲など古い思想から脱却できない恥ずべき生活や、本能的欲望を理性の力で抑制できない不健全な生活は、自分自身の主人としての生活だとはいえない。

 自主的な生活は、人間の活動が主人としての要求を実現する方向で、おこなわれるようにするものであるので、自主的な思想をもたなければならない。しかし自主的な思想だけでは、自分自身の主人としての生活をいとなむことができない。それを実現する知識と能力がなければ自己の要求を実現することができない。そのような人の生活は自分自身の主人としての生活とはいえない。科学知識や文化的素養のある人だけが、社会的・政治的生活や文化情操生活に主人らしく参加でき、自分自身の主人としての生活を営むことができるのである。

 自分自身の主人としての生活はこのように、思想と文化の主人としての成果ばかりでなく、自分自身の肉体の主人としての生活である。

 人間はだれもが無病長寿を願う。しかし少なからぬ人が病魔におかされ、長生きできないでいる。これは人間がいまだに、自分の肉体の完全な主人になっていないことを示している。肉体は所有していても、それを思うようにコントロールできないでいるのである。したがって人間が自分の肉体の完全な主人になるためには、発達した医学やスポーツの恩恵をこうむるばかりでなく、そこに意識的な努力が傾けられなければならない。

 以上、自主的な生活について考察した。

 世界の主人として生きる人間の要求が無限であるため、自然の主人、祉会の主人、自分白身の主人としての生活も無限である。それゆえ人間が自然、社会、自分自身の完全な主人になるためには自然改造、社会改造、人間改造(自分自身の改造)をたえず続けなければならない。



U 創造的な生活

 創造的な生活は、幸せで生きがいのある生活の重要な内容をなしている。

 金日成主席はつぎのように述べている。

 「(略)人間は革命のために生きてこそ生きがいがあるのであって、革命もせず、のんびりとご飯を食べていたずらに歳月を過ごすのでは、生きるかいがありません。まして、今日のように激動する革命の時代に、なんの闘争もせず、安易な生活をするならば、それは事実上生活とはいえず、そのような生きかたをする人は人間としての価値がありません」(『金日成著作集』第22巻、日本語版133〜134ページ)

 創造的な生活は世界を改造し、自己の運命を切り開いていく生活である。主人としての創造的な活動を通してのみ人間は新しい生活を創造し、発展させ、主人として生きる要求をみたすことができる。客観世界を自分の要求にあわせて改造する創造的生活を通して、自主的な生活の道を開拓するところにこそ、人間生活の本質的な特性の一つがあるのである。

 人間は創造的な活動過程にこのうえない喜びを感じる。それは、自らの努力によって自主的な要求をみたしたことにたいする喜びであると同時に、創造的活動を通して、主人としての役割を果していることを自覚する喜びである。

 科学者が新しい科学技術的問題を解明する過程や作家が新しい境地を開いた独創的な作品を創作する過程は、かれらの創造的な活動の過程であり、多くの困難を克服していく過程である。科学者や作家は自分の創造物の完成に寝食を忘れてうちこむ。しかしかれらは、そうしたなかで人知れぬ創造の喜びを感じるのである。

 創造的な活動、創造的な生活の喜びは、発展への要求をみたしていく喜びでもある。

 自主的に生きる要求と共に、発展を志向する要求は、人間に特有な要求である。その要求をみたしていく過程が創造的役割を果す過程である。創造的活動を通してはじめて、人間は発展への要求をみたすことができる。

 人間は発展へのたえざる要求があるため、到達した水準に満足せず、高い目標をめざして不断に前進するのである。

 一つの要求がみたされると、また新しい要求が提起される。朝鮮には、馬にのれば馬子が欲しくなるということわざがあるが、これは、人間がたえずより高い要求を提起するということの表現である。生活条件がいかに改善されても、現状に満足しないのが人間である。不健全な欲望は抑制されるべきだが、たえざる発展を願う健全な要求は多ければ多いほどよいのである。

 人間はたえざる発展を要求するので、沈滞した生活からは喜びや幸せを感ずることができない。ある映画で、主人公が自分は若く、出世し、財産もあるが、幸せだと思ったことはないと告白するシーンがあるが、これはかれが発展のない、沈滞した生活をしているからである。

 人間は発展する生活、たえず新しいものを創造する生活のなかでこそ、真の喜びを感じるのである。発展の喜び、創造の喜びは、自分自身をより有力な存在に高めていく喜びである。古代のある哲学者は「もっとも幸せな人間は、自分を完成していることをもっとも多く感じている人である」と言った。自分をより有力な存在に発展していることを感じれば感じるほど、その人はより幸せであるといえる。

 人間はなにかを創造してこそ人間としての任務を全うし、人間らしい生活をしているといえる。人間にとって創造的活動が終わる日は、人間としての生活も終わる日である。それは、創造なくしては発展が望めないからである。

 なかには遊んで暮らすのが幸せであると思う人がいるが、それは誤りである。遊んで暮らすのは主人の役割を果さない生活であり、自分の発展はもとより、社会の発展になんら寄与をしない生活である。

 人間には一定の休息が必要であるが、絶対的な休息、永遠な休息は死を意味する。休息はそれ自体に目的があるのではなく、より創造的な労働の前提として必要なのである。人間の真の幸福は休息にあるのでなく、活動と創造、発展のなかにある。

 財貨が滝のように生産され、遊んで暮らせる社会が理想社会ではない。理想社会でも人間の創造的労働は軽減するのでなく強化される。もちろんそのときにはたんに食べるために働くのではなく、自分自身をより有力な存在に高め、たえず新しいものを創造しようとする人間の本質的要求をみたすために働くのである。理想社会では、休息がてらにスポーツを楽しむように労働するので、労働が生活の第一義的要求となるのではない。そのときは、自分自身と社会を発展させる必要性が全面に押しだされ、労働が文字どおり幸せと喜びの源泉となるために、生活上第一義的な要求となるのである。


V 集団主義的な生活

 社会的存在である人間の幸せで生きがいのある生活は、集団主義的な生活である。

 金正日書記はつぎのように述べている。

 「人間は孤立的にではなく、社会と集団の構成員として生きるために、生活の価値は、かれが社会と集団にどれだけ貢献したかによって評価されます。国と民族のために、人民大衆の革命偉業のためにより多く貢献した生活であれば、それだけ価値の高い生活であり、このような価値の高い生活をする人だけが真の生きがいを感じることができます」〔『みな英堆的に生き、たたかおう』9ページ)

 社会的存在である人間は、社会と集団のなかでのみ真の幸福と生きがいを求めることができる。社会を離れて、個人の真の幸福と生きがいを考えることはできない。

 集団主義的生活は互いに愛し、協力しながら生きる生活であり、集団の要求と利益を自分の要求と利益としてとらえ、そのためにたたかう生活である。

 社会的存在、集団的存在である人間は、元来孤立して、孤独に生きることに反対し、集団の一構成員となって、互いに愛し、協力しながら生きることを本性的要求として提起する。

 人間にとって孤独である以上の苦痛はなく、孤独感よりも不安な感情はない。人間が互いに愛し、頼り、協力するのは、人間の社会的本性の現れである。正常な人間は一人で楽しむより、多くの人といっしょに楽しむことを好み、苦しみも一緒に分かつことを望む。このような人間の本性的要求からして、昔から、喜びは分かちあえればさらに大きくなると言った人もあり、人間はいかにりっぱな物があっても、それを分け与える友人がいなければ、真の喜びが湧かないと言った人もいる。

 人間は互いに愛し、頼り、協力するところに、自分が集団の一構成員として集団と密接に結びついていることを感じ、そこに無限の幸福を感じる。孤立して孤独に生きることを嫌い、愛し協力しながら生きることを望む人間が、自己の運命を集団の運命に結びつけ、集団と一体となって生きることに生きがいを求めるのは自然なことである。集団から見捨てられたとき、人間は耐えがたい苦痛を感じる。

 ゴーリキーの初期の作品の主人公は多くの教訓を示している。主人公は人間と鷲のあいだに生まれたために、人間と鷲の本性をかねそなえていた。かれには人間の本性と要求があるので、人々から憎まれその集団から離れることを強いられたとき、人間の手で殺されることを願うようになるのである。かれに動物的な本性と要求しかなかったとしたら、そのようなことは想像もできないであろう。

 このように、集団主義的な生活は、集団的・社会的存在である人間の本質的要求から生じる人間に特有な生活である。

 人間の自主的・創造的位生活は、集団生活を通してのみ実現でさるので、集団主義的生活は、自主的・創造的生活を保障するための生活でもある。

 上記のように、自然と社会を改造するたたかいは単独では不可能であり、社会的に協力してはじめて可能になる。

 人間の運命はこのようにただ集団的にのみ開拓されるので、個別的人間は集団に頼らざるをえない。また、集団の繁栄を離れては個人の発展も考えられない。したがって、運命開拓のたたかいで集団の利益と個々の人間の利益は根本的に一致する。

 しかし集団の利益と個人の利益は、統一していながらも相対的に区別される。こうして、個人の利益を集団の利益に従わせるか、それとも集団の利益を個人の利益に従わせるかという問題が持ちあがり、そのどちらの立場に立つかによって、人生観は集団主義的人生観と個人主義的人生観に分けられるのである。

 個人主義的な生活は、生活を本質上個人の要求と利益を実現する過程であるとみる。ここで、個人の要求と利益を実現するのは生活の究極の目的である。個人主義的人生観を持つ人間は、他人はどうなっても自分独りりっぱに暮らせばよいと考える。このような生活観に染れば、自分独りの安楽と功名、栄達のために詐欺や欺瞞を事とし、他人の生命、財産を犯すばかりか、国と人民を裏切る売国行為もあえてするようになる。このような人間は、人民大衆の運命と自分の運命を結びつけることができないために、たえず孤独感と不安にさいなまれ、個人の死を生活の終焉とみるために、生きがいを感じないのである。

 集団主義的な生活観は、社会と集団の共同の主人となって、共に豊かに暮らし、共に発展することを生活の目的とし、その実現をめざすたたかいのなかで幸せを求めなければならないとする観点である。

 集団主義的生活はこよなく貴重な生命と財貨をもって生きる生活である。個人主義者は、自分一個人の生命と財産の主人にすぎないが、集団主義者は集団の運命と自分の運命を密接に結びつけ、永遠に生きる集団の生命を自分の生命とみなし、個人主義者の財貨とは比べようのない貴重な社会的財貨をもって生きるのである。

 集団主義的な生活は集団と同志の愛と信頼につつまれて生きる生活である。集団と同志の愛と信頼は、世の中でもっとも貴重な愛であり、信頼である。それは、社会的・政治的生命を輝かせ、人びとが生死苦楽を共にしていく高潔な愛であり、信頼である。このような愛と信頼は、集団に献身的に奉仕する人間だけが受ける愛であり、信頼である。個人主義者は集団を愛さず、自分独りだけを考え、集団のためにつくそうとしないので、社会と集団から愛と信頼を受けることができず、嫌われ見捨てられる。

 このように、集団主義的生活はもっとも貴重な社会的・政治的生命と社会的財貨をもち、同志的な愛と信頼に結ばれて生きる人間の生活であり、真に幸せな生きがいのある生活である。

 ここで留意すべき問題は、集団主義的生活が集団の利益だけを主張し、個人の利益、個人の創造性を無視する生活だと考えてはならないということである。

 集団の利益が強調されると個人の利益が犠牲になり、逆に個人の利益が強調されると集団の利益が犠牲になるという考え方は誤った見解である。また、集団主義的生活や社会共同の要求を強調するのは、個人の生活に干渉し、個人の自由を束縛するとみるのも誤った見解である。

 集団主義的生活は、個人の利益だけを求める個人主義的生活とは対立するが、個人の利益や創造、個性の発展を抑制しない。それは、集団の利益と個人の利益を統一し、個性の発展と集団の発展を共に保障する生活である。

 個人は集団の一構成員である。したがって集団の利益が保障されてはじめて、個人の利益が保障され、国が栄えはじめて、その構成員も豊かになるのである。

 集団は多様な個性をもった個人から成り立っている。集団となす個人の個性が多様であればあるほど、集団はより大きな生命力をもつ。似た者同士が集れば統一が容易で、強くなれるかというと、必ずしもそうではない。実際は、多様な個性、素質、能力をもつ人びとが一定め共通性にもとづいて一つの集団として固まったとき、より大きな生命力をもつようになるのである。これは斉唱よりも合唱の方がより美しく荘重であるのと同じ理屈である。

 個人の創意と個性を極力発展させるのは個人の生命力の強化に寄与するばかりでなく、集団の生命力の発展にも寄与し、逆に集団の発展は個人の発展に有利に作用する。

 個人のみを重視し、集団の利益を軽視する個人主義や利己主義が正しくないように、集団の利益、全体の利益の名のもとに個人の利益を無視したり、その創意と個性を抑制するのは正しくない。それはえせ集団主義である、全体主義となる。集団主義と全体主義は全く異質である。

 集団主義は、個人の利益の実現に寄与する集団の利益を擁護し、個人の創意と個性の発展に寄与する集団の発展を主張する。個人の利益と個性を発展させ、集団の統一をよりよく実現する生活であればあるほど、より理想的な生活であるといえる。

 個人の創意と集団ないし社会の統一と結合は、平等の原理と同志愛の原理が実現されるときに実現される。

 個人の創意と個性の発展を保障するには、平等の原理が実現されなければならない。平等の原理は一口に言っても等価補償の原理である。即ち能力と役割に応じて待遇するのが平等の原理である。同一の条件で同一の仕事をした人を平等に待遇するのが平等の原理である。同一の条件で同一の仕事をした人を平等に待遇し、社会により多くつくした人をよりよく待遇するのは当然であり、またそうしてこそ人びとの創意と能力はいかんなく発揮されるのである。

 社会の統一の維持、発展のためには、平等の原理と共に同志愛の原理を具現しなければならない。同志愛の原理は等価補償の原理ではなく献身性の原理だといえる。同志愛の原理、献身性の原理は打算や代償を前提にしない。親が子を養育するのは代償がめあてではない。人間関係がこのような私心のない愛と献身性によって、一貫されなければならないというめが、こめ原理の要求である。同志愛は人間を一つの社会的集団に結合する重要なきずなであり、動力である。同志愛によって人間は喜びや悲しみを分かち、生死を共にするのである。

 革命的同志愛は犠牲的、献身的な愛であり、もっとも貴重な愛である。同志愛があつく、また同志から愛される人こそ幸せな人である。同じ集団に属する人を愛し、人民大衆を愛し、かれらと運命を共にする人だけが集団の仲間や人民大衆から愛され、生きがいのある幸せな生活を楽しめるのである。

 生活のあらゆる分野で、人間の相互関係で献身的な同志愛の原理が具現されるとき、個人の発展と集団の発展がひとしく保障され、理想的な生活が営まれるのである。